地名は,歴史を知る手がかりです。
現在では使われなくなった古い地名も,「辻標(つじひょう)」などを手がかりに調べることができます。
お年寄りに聞いてみるというのもいいですね。
ここでは,南小泉周辺の地名の由来(ゆらい)をかんたんに説明しています。くわしく調べる手がかりにしてください。

一本杉町鍛冶屋敷木ノ下五十人町椌木通三百人町成田町保春院前丁南小泉六十人町

 一本杉町(いっぽんすぎまち)

このあたりに伊達家の屋敷があり,屋敷内の老木が,あたり一帯の目印となっていたことから「一本杉」と呼ばれた。

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 鍛冶屋敷(かじやしき)

もと国分氏(こくぶんし)の刀工(とうこう)で,のちに伊達政宗(だて・まさむね)に召(め)し抱(かか)えられた本郷国包(ほんごう・くにかね)がこの地に住んでいたことから「鍛冶屋敷」と呼ばれた。

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 木ノ下(きのした)

陸奥国分寺のあたり一帯に,古くて大きな木がおいしげっていたことからこのように呼ばれるようになった。古い和歌に「みさぶらい みかさとまうせ みやぎのの 木のしたつゆは 雨にまされり」などとあるように,とても古くから歌枕(うたまくら)の地として有名であった。

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 五十人町(ごじゅうにんまち)
足軽(あしがる)50人が住んだことから名づけられた。寛永9年ごろにつくられた町。別名「ダンポ町」と呼ばれていた。ダンポとは刀(かたな)のことを指(さ)すらしい。米沢(よねざわ)にあった伊達八幡神社を移して守り神としている。

←五十人町足軽組の旗印(『伊達家史叢談』より)


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 椌木通(ごうらぎどおり)
このあたりに中が空洞(くうどう)の木があり,空洞を「ごら」といったことから椌木と呼ぶようになった。江戸時代には侍屋敷(さむらいやしき)があった。

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 三百人町(さんびゃくにんまち)
鉄砲足軽(てっぽうあしがる)組300人が住んだ町。伊達氏が米沢(よねざわ)に移住(いじゅう)したとき,伊達郡に残ったが,関ヶ原の戦いの後,再び伊達氏の家来(けらい)となり,寛永7年(1630)からこの地に住んだ。足軽たちは伊達家のふるさと福島の信夫郡(しのぶぐん)の出身だったためふるさとの地名をつけた「信夫神社」を町の中央にまつった。

←三百人町足軽組の旗印(『伊達家史叢談』より)


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 成田町(なりたまち)
慶長18年(1613)に桃生郡(ものおぐん)成田村から召し出され伊達家の足軽(あしがる)に取り立てられた84人が住んだ町。ふるさと成田村から「箱石神社」を移し祭っている。


←成田町足軽組の旗印(『伊達家史叢談』より)


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 保春院前丁(ほしゅんいんまえちょう)
保春院の前につくられた町だったためこの名がついた。
保春院は,伊達政宗が母のために建てたお寺。そのしき地はとても広かった。江戸時代の中ごろには,現在の区役所,文化センターのあたりに伊達家の別荘(べっそう)がつくられた。江戸時代の終わりごろになると,区役所やウルスラ学院の辺りには伊達家の家来(けらい)の屋敷(やしき)がおかれた。

*辻標の設置場所は,若林区役所入り口   もどる↑
 南小泉(みなみこいずみ)
江戸時代には「小泉村」と呼ばれていた。明治時代になり,宮城郡になるが,同じ宮城郡の中に高木(たかぎ)小泉村(現・松島町)があり,区別するために「南小泉村」と呼ばれた。

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 六十人町(ろくじゅうにんまち)

足軽(あしがる)60人が住んだことから名付けられた。寛永9年ごろにつくられた町。

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参考 「角川日本地名大辞典 4 宮城県」角川書店,「開校百年記念誌 南小泉」,仙台市文化財パンフレット第35集「辻標」