和賀忠親(わが・ただちか)                     1 2 3 4


■ 和賀氏のその後

事件の翌年,伊達政宗は,忠親の子をさがし出して,志田郡松山に屋敷をあたえて住まわせました。名前は,義弘(よしひろ),13才だったそうです。以後,和賀氏は伊達家の手あついもてなしをうけながら,代々松山の地に住んだということです。松山に屋敷をあたえられた義弘は,実は和賀忠親本人であり,忠親は国分尼寺で死んでいなかったという説もあります。
真実がなぞにつつまれたまま,
忠親とその家来たちは静かなねむりについています。

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 ■国分尼寺 和賀忠親主従の墓
 ■国分尼寺 資料室