佐藤 善雄氏は,明治17年、名取郡坪沼村で生まれました。
    彼は生まれつきひ弱で,とうてい満足に育つまいと思
  われたそうです。性格も神経質で,涙もろくおく病で,ひと
  の中にいくことを嫌いました。
   生出小学校坪沼分教場に就学するころとなっても,荒
  々しくとび回る仲間を嫌がって,登校を拒否したのでし
  た。しかし,お父さんは厳格でわがままを許さず,まる
  でスパルタ教育,げんこつは絶えず加えられました。
   十歳の時から,朝習いと称して鴨原先生のもとで漢
  字を学ばされ,毎朝、暗いうちに起こされ,どんな天気
  でも必ず送り出されるのでした。そして三年余り先生が
  病気でたおられるまで,休みなく続いたのです。このように
  厳格に育てられたが,健康はなかなか良くならなかった。しかし何か気の強い性質に変わって
  行ったのです。
    当時,本校にも高等科がなく尋常四年の上に補習科三年という制度でした。
    その補習科三年のある日,ふとしたことから分教場の主任の先生と衝突を起こし,先生に
  「貴様のようなやつは学校に来ることはない 出て行け。」とどなられあまりのことに涙を流して
  ふんがいし直ちに勉強道具を風呂敷に包んで自宅に帰りました。そして次の日から家に引き
  こもって,出校はなかったのです。
    こうして数ヶ月も過ぎようとした時,突然本校の校長茂庭秀福先生が尋ねてこられ,九月か
  ら本校に通学して来春,中学入学の準備をさせろとお父さんに勧めたのです。そこで中学入
  学の方向が定まり、ただ一人坪沼から茂庭の本校に通ったのです。
    この坪沼の分教場を追い出されて茂庭に通うようになったことは,かれにとって生涯最大の
  出来事だったのです。まずひ弱い身体が目立って強健になり生来、おく病で,ものおじしてい
  たのが大胆になり勇気が出たのです。
    あの大八山の峰に登り,谷に下ってうねうねとたどる細い山路,冬の日の雪はひざまで入
  り,吹きたまりの雪は全身をかくすほど深く,その上冬の日は短く、茂庭はすでにランプがつく
  頃,山鳥の羽音にきもをつぶしながら五キロの道を毎日通ったのです。
    この苦しみに絶え,若くして活気ある川村藤蔵先生に励まされ,課外に中学の予習をしても
  らい,翌三月,首尾よく宮城県立の中学に入学したのです。
    いなか出の者で,都会の学生に対して劣等感があったが,熱心に努力し,優等生で卒業す
  ることができたのです。
    中学を卒業(明治三十六年)後,みんなの反対をおしきり大陸に留学生としてとび出し勉強
  を続けました。そして学校を出た後,新聞社に入り,記者として,中国でめざましく活動したの
  です。その間キリスト教にも関心を深め昭和十二年祖国に帰り赤石の更正社で農村青年に
  聖書の伝導を行い道場も開きました。
    その後戦争も終わり,彼は赤石に落ち着き,青年たちに呼びかけ伝導を始めました。それ
  から十数年,仙台に移り住むまで,いろいろな困難を伴ったが,農村青年への伝導集会がつ
  づきました。
    この間(昭和二十五年)に村長が彼のもとに尋ねて来て,「県から公民館というものをやれと
  言って来たので,これを手伝ってくれ。」と言われ,公民館は,社会教育をやる場所だと言うの
  です。村には経費もあまりないということであるが,毎月一回発行の「公民館だより」の印刷代
  だけは出してもらうことにして,中学校の無給社会科教師を引き受けたのだから,公民館も引
  き受けたのである。そして館長一人の公民館の仕事が始まったのです。公民館では村の青年
  男女の指導訓練を行うことになりました。そのためなんとか「公民館だより」を出すことによって
  青年男女の親たちの民主主義を理解させる手段として,この「公民館だより」の発行に力を注
  いだのです。そして生出村が仙台市に合併(昭和三十一年)されるまで,その努力が続けら
  れ,その後は名誉館長として十八年生出公民館の活動,発展のために尽くされたのです。