餓 死 年

「餓死年」なんていう言葉を聞いたことがありますか。
昔は、冷害や大水などで、お米や野菜などがとれない年が続くと、大勢の人が餓死したのです。
 このような年を、人々は「餓死年」といって恐れました。

 仙台市太白区の坪沼には、小川の土手に餓死した人たちを供養した石碑が二つ並んで立っています。
 一つは、今から170年ほど前の天明の飢饉の供養塔で、もう一つは、それから50年ほどあとの天保の飢饉のものです。

「チーン にょお− にょお− にょお− にょお−」
「チーン」
 今から120年ほど前の、天保4年春。
村の人々は、50年前の天明の飢饉で亡くなった人を慰めるためお金を出し合って、餓死供養塔を建てたのです。

 天明の飢饉では、坪沼村だけで243人もの人が、食べ物がなくて餓死しました。
 その時なんとか助かった子供たちも、もうおじいさんやおばあさんなっていました。

「ナンマンダブ ナンマンダブ死んだおどっつあん、おっかさん、おずんつあん おばんつあん、あんねぇ あんにゃあ みんな あの世さ行ってなにすてっぺなぁ。おらぁ今年で60だわぁ」
天明の飢饉の時10歳でなんとか助かった茂作じいさんです。

飢饉=ききん