広瀬川灯ろう流しの歴史 |
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江戸時代に仙台藩(せんだいはん)をおそったききんの中でも,宝暦(ほうれき),天明(てんめい),天保(てんぽう)のききんは,東北の三大ききんとして知られています。冷害(れいがい)による凶作(きょうさく)で数十万の人々が死亡するなど多くのひ害が出たと伝えられています。
ききんが起こった時,仙台藩では,現在の広瀬橋の近くにおすくい小屋を建てて「かゆ」を出すなど,できるかぎりのことをしました。それでも,多くの人々が衰弱(すいじゃく)し,死んでいったと言われています。 伊達家第7代・伊達重村(だて・しげむら)の夫人である観心院(かんしんいん)は,桃源院(とうげんいん)というお寺を広瀬橋のたもとに建て,悲運な最期をむかえた人々の霊を河原で供養したそうです。これが,現在まで続く広瀬川灯ろう流しの始まりといわれています。 以後,毎年灯ろう流しが行われるようになり,伝統的な行事となっていきました。戦後,花火大会も同時に開催されるようになり,夏の風物詩としての仙台最大級の行事として昭和53年まで市民に親しまれていました。 一時中断していましたが,1900年に「広瀬川灯ろう流し・光と水とコンサートの夕べ」として復活しました。毎年8月20日に実施され,仙台の夏をいろどる行事として市民に親しまれています。 ■ 調べてみよう ■ |
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