山川 浩(やまかわ・ひろし)

弘化2年(1845)〜明治31年(1898)


会津藩士。はじめ,大蔵重栄という。後に浩と名をあらためる。

慶応2年,22才の時に徳川幕府の家来・小出秀実にしたがってフランス,ドイツ,ロシアに渡り,翌年日本に帰ってきた。

会津戦争の時には,陣将として日光方面で戦ったが,藩主の命令によって城にもどる。この時,城は西軍にかこまれていたが,彼岸獅子を先頭に堂々と入城したというエピソードはよく知られている。

会津藩降伏の後は,斗南藩の最高責任者となり,会津から移住した人々のために力をつくした。

廃藩後,陸軍軍人となる。浩が陸軍少将になったとき,長州藩出身の山県有朋は「賊軍出身の者を将官にするとは何事か!」といってはげしく怒ったという。

明治31年,54才で死亡。健次郎,捨松の兄。