仙台市立郡山中学校1学年総合的な学巣の時間 2004.11.1実施
登米自主研修質問一覧
 
 
はじめに
 
・生徒が調べる方法として、質問の内容によって以下の方法が考えられます。
 @担当の方にインタビュー(取材)
 A回答書をあらかじめ用意していただく(回答)
 B実際に見て調べる(見学)
 C文献(登米町史、宮城懸史、学制百年史等)で調べる(文献)
 
・生徒は2時間でだいたいコースを一周する予定です
 
T 教育資料館
 
(1)旧登米尋常小学校の設立に関するもの
・明治21年にこの小学校が建てられた理由
・校舎の建設費、建設期間、資金提供者
 
(2)旧登米尋常小学校の建築デザインのうち特徴的なもの
・1Fの窓についている霜よけの庇があるが、2Fの窓に庇がない理由
・庇がついていて光は教室まで入ってきたのか
・バルコニー・吹き抜け片廊下、六角形を半分に切った形の昇降口など造りにこだわった理由
・現在の学校にはバルコニーがないのに明治時代にあった理由
・バルコニーは校舎のシンボル的存在とあるがどうしてか
・コの字型の校舎にした理由
・当時貴重だったガラスを取り入れた事情
・洋風建築に対する当時の人々の反応は
 
(3)今の小学校との設備の違い
・明治時代はどのようにして寒さをしのいでいたのか
・今の学校と洋風の当時の学校の内部と設備の違い
 
(4)国指定重要文化財
・明治中期の地方文化の結晶として価値ある貴重な建造物なのか
・昭和56年に国指定重要文化財に指定された理由
・国指定重要文化財になっているがその最も重要な部分はどこか
・宮城県の中で同じような立派な学校建築物が他にあるか
 
(5)明治9年当時の様子
・就学率の高さと豊かな経済がどのような関係にあるのか
・登米の就学率が高く、義務教育でなかったのに児童数が477人と県内最大だった理由
 
(6)義務教育と義務教育でない教育の違い
・義務教育でなかった理由と今義務教育になっている理由
・義務教育でなかった頃は、どうやって、どんな教育を受けていたか
・義務教育と義務教育でなかったときの勉強の違いは何か
 
(7)明治31年当時の様子
・生徒数が1000人を超えた理由と、その対応、学校の様子
・明治31年(1888年)の1000人を超えていたというがその時も県内最大だったのか
・1000人を超えたときの1学級の児童数
・1000人というが全員がこの学校に来たのか
・1000人というと周辺に小学校はなかったのか
・1000人もいて教える教師は十分にいたのか
・1000人を超えた以降はどうなったのか
 
(8)明治時代の学校の様子
・昔の教科書や子供たちに教育している様子
・明治時代の小学校ではどんな学習をしていたのか
・教科書の内容、教科数
・明治の教科書にも算数があったのか
・音楽室や図書室はあったのか
・明治の頃の授業時間、校則の厳しさ、授業日は週何日か、体罰はあったか
・クラス数と定員数
・昔と今の教科書のちがい
・各時代の教科書の移り変わり
・明治の数学の教科書は今と同じくらいの難しさか
・昔はランドセルやカバンでなく何に入れていたか
・当時の学費はいくらくらいか
・昔の学校給食はあったのか
 
U 旧登米警察署
 
(1)警察署について
・脱獄する者はいなかったのか
・留置場や取調室などは時代と共にどのように変わったか
・留置場数と広さ、収容人数
・なぜ昔は木造の留置場なのか
・旧登米警察署の職員の人数は
・刑務所はなかったのか
・洋風に新築された頃の町のにぎわいとそれに伴う警察官の役割
・登米には他に警察署がなかったのか
 
(2)警察官の仕事今昔
 
・当時の警察官の仕事は
・昔の警察の道具
・昔の刑はどういうものか
・昔はどのような罪を犯した人がつかまったのか
・昔の捜査の方法
 
(3)警察官の服装と装備今昔
・警察官の制服と装備の移り変わりや
・制服の素材は
・警察官の制服の種類
・なぜ制服が変わるのか
・昔の警官は拳銃を持っていたか
・昔の警察バッジはどのようなものか
 
(4)その他
・昭和43年から登米警察署として使われなくなった理由とその後
 
V 建 築
 
(1)教育資料館
・旧登米小学校をなぜ洋風建築にしたのか。
 
(2)旧登米警察署
・旧登米警察署はなぜ洋風建築にしたのか
・洋風建築の警察署に対して、当時の署員や地域住民はどのように思ったか
 
(3)水沢県庁
・入母屋造りとは何か             
 
(4)洋風建築全体
・山添喜三郎が小学校と警察署などを手がけることになったいきさつ
・山添喜三郎が旧登米尋常小学校と旧登米警察署を同じ造りにした理由
・なぜ洋風にする必要があったのか、和風でもよかったのでは
・洋風の造りにしたのにレンガでなくなぜ木造にしたのか
・なぜ和洋折衷の擬洋風建築にしたのか
・洋風の意匠の中に和風を取り入れた手法とはどのような造りのことか
・洋風建築に和風も取り入れることのメリット
・洋風建築なのに、屋根だけ和風にこだわった理由
・旧登米小学校や旧登米警察署以外にどのような洋風建築物があったのか
・洋風文化はどのように登米に入ってきたのか。
・むかしの建物に吹き抜けのバルコニーが多い理由
・洋風と和風建築で使う道具の違いは
・なぜ当時を代表する洋風建築だったのか
・当時家庭も洋風建築に変わっていったのか
 
(5)白壁の蔵
・白壁の蔵が白い理由、また交差しているような模様について
 
(6)その他
・大きな地震や洪水にあっているにもかかわらずなぜ現状のまま残っているのか
・今は鉄筋のマンション、アパートが建築の主だが、昔の造りはどうなっていたか
・昔の建物はどんな方法でどれくらいの人数で建てたのか
 
W 春蘭亭
 
・江戸時代の武家屋敷をどのように保存してきたのか
・江戸時代の武家屋敷の門構えがなぜ当時のまま残っているのか
・武家屋敷とはどのようなものか
・春蘭亭が他の武家屋敷と違う形式で作られた理由は
・大都市の武家屋敷と地方の武家屋敷の違いは何か
・「直ご家形式」とはなにか、また「直ご家形式」にした理由
・江戸中期に屋敷を移した理由
・そこに住んだ人の歴史
・鈴木将監重信公について
・家直の頃の地方武士の生活はどうだったか
・登米の武家屋敷には有名な人は住んでいたか
・入母屋造りの「入母屋」の意味
・武家屋敷通りにはどれくらい武家屋敷があるのか
 
X 流通・輸送
 
(1)舟運一般
・北上川の舟運が盛んになった理由
・北上川の舟運の中心に登米が選ばれたわけ
・なぜ北上川の舟運は東北経済の中心となったのか
・当時川の近くにはどんな店があったのか
・船の積み荷に重量制限はあったのか
・なぜ時代の流れに抗しきれなかったのか
・「心まかせに石巻下り、間の登米で中泊まり」という揚屋節の意味
 
(2)登米丸
・なぜ蒸気船で運んだのか、舟で運ぶ必要はあったのか
・「登米丸」の名前の由来
・有志が出資して登米汽船を設立した経緯
・蒸気船にした理由
・どれくらいの資金で建造されたか
・登米丸はどういう構造の船だったか
・登米丸のトン数
・登米丸が5年で運行を取りやめた詳しい理由
・なぜ就航させることになったか
・登米丸は人をもっと集められたかもしれないのになぜ運行をやめたのか
・登米丸に客席があった理由
・登米丸は登米と石巻をどれくらいの時間で行き来したのか
・登米丸と鉄道ではどれくらい輸送能力(速さ、量、経費)に差があったのか
・登米丸のエンジンはどういうものか
・東北本線の盛岡までの開通で北上川の舟運が衰退したとあるが、具体的にどういうことか
 
(3)ひらた船
・ひらた船とはどういう船か
 
(4)仙北鉄道
・どんな鉄道だったのか
・仙北鉄道が開通したのに登米は物流の中心にならなかったのか
 
 
X 北上川治水
 
・領地の惨状とはどのようなものだったのか
・宗直が北上川の流路を変えようとした理由
・宗直が新田開発をしたことによって、伊達家の収入はどれくらい増えたのか(123)
・堤防を作る前後の収穫高の違い
・堤防を築いた場所は現在どうなっているか
・なぜ野谷地が水田に変わったのか
・相模土手はどのようにして造られたのか
・相模土手は今も残っているのか
・6年の歳月を費やした大工事の費用は
・北上川治水大工事の前後の米の生産量の違いは
 
 
Y 産業経済
 
・米が石巻に運ばれた理由
・登米で良質な米が取れるようになったのはいつ頃からか
・登米が発展した理由は、稲作や水運の他にどんなことがあったからか
・登米の豊かな経済が、就学率を高めるほど一般町民に波及したのはなぜか
・登米の町を豊かにさせた産業と、その産業が盛んだった理由
・米は石巻に集められたあと、どのようなルートでどこに運ばれ、どこで売られたのか
・なぜ養蚕やみそづくりが盛んになったか
・登米にはどのような特産物があったのか
・立派な店蔵とあるがどんな品物があるのか
・料理屋とあるがどんな料理屋が親しまれたのか
・昔は米味噌醤油の他にどんな食品があったのか
・白壁の蔵は何を入れておく蔵だったのか
・老舗鰻屋が川の方を向いて立っていた理由
・伊達藩に米をどれくらい納めたのか
 
Z 登米町
 
・なぜ登米の方が発展すると言われたのか
・登米の落ち着いた雰囲気の理由
・なぜ宮城の明治村とよばれるのか
・町の規模にしては旅館が多い理由
・どんなところをノスタルジックというのか
・登米はなぜ人が多く、教育に力をそそいだのか
・なぜ文化財や文化遺産がいっぱいあるのか
・物流の中心が移った理由
・登米をどうして「とよま」と読むのか
・建物が川のほうを向いている理由
・登米町が重要文化財になるほどの建築物を造った理由
 
[ 人物
 
(1)山添喜三郎
・山添喜三郎の人と建築家としての実績
・当時、他にはどんな建築家がいたのか
・他にどんな建物を建てたか
・彼の建造物にどんな特徴があるか
・ヨーロッパ建築の何を学びに行ったのか
・なぜ洋風建築を学んだのか
・なぜ山添喜三郎に依頼したのか
・子孫はいるのか
 
(2)川村孫兵衛重吉
・どんなことをした人か
 
(3)伊達宗直
・宗直が水沢から移封されたのはどうしてか
・宗直はどのような戦功をたてたのか
・登米伊達家は宗直から何代続いたのか
・葛西氏と葛西氏が築城した寺池城について
 
(4)渡辺政人
・名誉市民の渡辺政人とはどういう人物か
・コレクションを送った理由
・名誉市民になった理由
・なぜ伊達家ゆかりのものを持っていたのか
 
(5)松尾芭蕉
・なぜ芭蕉は東北に来て俳句を詠んだのか
・登米神社の境内に芭蕉の句碑がある理由
 
[ 森舞台
 
・伝統芸能とはいったいどんなものか
・能の演目と特徴
・登米能がいつ頃から始まり、なぜ大切にされて続いているのか
・なぜ洋風文化に流されず純和風を貫き通したのか
・能舞台の人形や衣装は何時代のものをモチーフにしたのか
・演能はなぜ6月と9月にするのか
・登米の伝統芸能が長年大切に受け継がれている理由
・地域文化である登米の伝統芸能(岡谷地南部神楽、とよま囃子、登米能)について
・登米の能は他の地域の能とどう違うのか
・秋祭り、宵祭りとはどのような祭りか
 
\ 水沢県庁
 
・置かれた理由、いきさつ
・他にも入母屋造りの建物があるのか
・昔の裁判のようす
・人民調所の仕事の内容
・建物の特徴とそのようにした理由
・周りを鉤型辻通りにしたのはなぜか
・小学校や治安裁判所に使用されたとあるが具体的にどのようなことか
・養雲寺の寺子屋の様子と、そこから動かした理由
・治安裁判所とは何か
・学校、庁舎、そして裁判所になったりと施設の使用目的が変わっていったのはなぜか
・破風は和風なのに、附属棟が洋風なのはなぜか
・なぜ一部分しか復元していないのか
・明治8年に庁舎が一関に移された理由
・水沢県庁舎の役割とその後
 
] 登米懐古館
 
・伊達家の刀剣や鎧について
・名前の由来
・貴重な文化財にどんなものがあるか
・渡辺コレクションという展示室がある理由
・工芸品はいつころから出来たものか
・工芸品のデザインは何種類くらいあるか
・伊達家ゆかりの品を展示しようとした理由
・県指定重要文化財の覚乗寺高台院霊屋はどういう場所か