仙台市立郡山中学校1学年Dtime 2004.11.1実施
登米自主研修回答集
 
はじめに
 このご質問には、観光ガイドとして答えています。また、質問が多いものですから、仕事の合間に取り組みました。1030日から5日間、登米町開府400年祭を開き、伊達家の家宝などを展示しています。そんなことから、時間が思うようにとれずに、文献でお願いしたいものがあります。よろしくご了解をお願いいたします。なお、T 教育資料館は学芸員に聞き取りを行ったものを記載しました。                     (株)とよま振興公社 常務取締役
※備考
 この回答集は、みなさんの膨大な質問集を元に相澤が編集し直したものに対してをご回答いただいたものです。したがって、自分の質問がない場合もありますが、それに近いものを探してください。また、実際に見学したり取材したりしてほしいと思います。なお、この回答集は竹内様のご回答を若干編集させていただきました。この貴重な回答集をよく読んで、より有意義な研修にして下さい。また、忙しい中、わざわざたくさんの質問に回答いただいたことに感謝申し上げたいと思います。
1学年主任 
 
T 教育資料館  
 
(1)旧登米尋常小学校の設立に関するもの
Q1 明治21年にこの小学校が建てられた理由
A1 明治8・9年前後に洋風小学校が盛んに建てられたが、建設予定地の関係で明治21年になってしまった。  
Q2 校舎の建設費、建設期間、資金提供者
A2 建設費3500円。敷地造成費等を含めた総事業費5874円。期間506日、資金はほとんど寄付によるもので生糸業・運送業・醸造業・商業・実業家あった。
 
(2)旧登米尋常小学校の建築デザインのうち特徴的なもの
Q1 1Fの窓についている霜よけの庇があるが、2Fの窓に庇がでない理由
A1 2Fには本屋根があるため。
Q2 庇がついていて光は教室まで入ってきたのかA2 見学で採光状態を確かめてみましょう。昔の教室の照明はどうだったのか?
Q3 バルコニー・吹き抜け片廊下、六角形を半分に切った形の昇降口など造りにこだわった理由
A3 当時、洋風小学校が盛んに建てられたことや、設計者が欧米の建築様式を取り入れて設計したことによる。
Q4 現在の学校にはバルコニーがないのに明治時代にあった理由
A4 上記と同じ。
Q5 バルコニーは校舎のシンボル的存在とあるがどうしてか
A5 校舎の中央にあって全体のシンボルとなっている。洋風にしたことによる。郡山中の校舎のシンボルは何ですか。
Q6 コの字型の校舎にした理由
A6 校舎全体を伺い知ることができる。
 
(3)今の小学校との設備の違い
Q1 明治時代はどのようにして寒さをしのいでいたのか
Q2 今の学校と洋風の当時の学校の内部と設備の違い
A1・2 実際に校舎を見学して調べてみましょう。
 
(4)国指定重要文化財
Q1 明治中期の地方文化の結晶として価値ある貴重な建造物なのか
A1 学校建築の流れや動向を知る上で、てがかりとなる重要な遺構。県技師が地方の建物を設計監督したこと、明治中期の地方文化の水準を示す貴重なものである。
Q2 宮城県の中で同じような立派な学校建築物が他にあるか
A2 近隣では、佐沼小学校・飲野川小学校があるが取り壊され現存しない。
 
(5)明治9年当時の様子
Q1 登米の就学率が高く、義務教育でなかったのに児童数が477人と県内最大だった理由
A1 小学校建設に多額の資金をかけたり、明治22年は町の予算の48%を教育にかけたり、また、卒業者数をみても教育にかける熱意・意識の高さがわかるし、経済的に裕福な家庭が多かったと思われる。
 
(6)義務教育と義務教育でない教育の違い
Q1 義務教育でなかった理由と今義務教育になっている理由
Q2 義務教育でなかった頃は、どうやって、どんな教育を受けていたか
Q3 義務教育と義務教育でなかったときの勉強の違いは何か
A1・2・3 「学制百年史」の資料を後から読む。資料館の展示物をみること。
 
 
(7)明治31年当時の様子
Q1 明治31年(1888年)の1000人を超えていたというがその時も県内最大だったのか
Q2 1000人もいて教える教師は十分にいたのか
A1・2 「宮城懸史」その他東北大や宮教大の教育学部の先生からあとで資料を借りてきます。
 
(8)明治時代の学校の様子
Q1 明治時代の小学校ではどんな学習をしていたのか
A1 読書・作文・習字・算術など
Q2 昔の学校給食はあったのか
A2 登米小・中学校が完全給食となったのは昭和391月からである。
 
【アドバイス】教育資料館に関する質問は、教育の歴史や、今の学校教育を考える上で、重要な質問が多いようです。これらについては、教育資料館に展示してある実際の資料をよく見てくることと、あとで文献のコピーを配布するので参照しましょう。
 
U 旧登米警察署
 
(1)警察署について
Q1 脱獄する者はいなかったのか(取材)
Q2 留置場や取調室などは時代と共にどのように変わったか(見学)
Q3 留置場数と広さ、収容人数(見学・取材)
Q4 なぜ昔は木造の留置場なのか
A4 鉄筋もコンクリートもない時代で、当時地元で調達できる資材は木材のみだった。
Q5 旧登米警察署の職員の人数は (文献)
Q6 登米には他に警察署がなかったのか(取材)
 
(2)警察官の仕事今昔
Q1 当時の警察官の仕事は
A1 消防の仕事を含んでいました。
Q2 昔の警察の道具(見学)
A2 一部展示していますので確かめてみましょう。
Q3 昔の刑はどういうものか(見学)
Q3 一部展示しています(軽犯罪)
 
(3)警察官の服装と装備今昔
Q1 警察官の制服と装備の移り変わり(見学)
A1 制服の移りかわりは額縁や実物展示、装備は一部展示していますので確かめてみましょう。
Q2 警察官の制服の種類(文献)一部展示
Q3 昔の警察バッジはどのようなものか
A1 階級を表わしています。展示しています。
 
(4)その他
Q1 昭和43年から登米警察署として使われなくなった理由とその後
A1 狭く、古くなり、機能的でなかったため。その後は、水澤県庁敷地に建設。さらに老巧化のため現在使用の警察薯に。
 
V 建 築 
 
(1)教育資料館
Q1 旧登米小学校をなぜ洋風建築にしたのか。
A1 洋風は一部で、いろいろな様式のいい点をとり入れた。
 
(2)旧登米警察署
Q1 旧登米警察署はなぜ洋風建築にしたのか A1 上のA1に同じ。
Q1 洋風建築の警察署に対して、当時の署員や地域住民はどのように思ったか (文献)
 
(3)水沢県庁
Q1 入母屋造りとは何か(文献)
A1 屋根の様式の一つ。実際に確かめてみましょう。
 
 
(4)洋風建築全体
Q1 山添喜三郎が小学校と警察署などを手がけることになったいきさつ
A1 宮城県建築技手(後技師となる)だったから。
Q2 山添喜三郎が旧登米尋常小学校と旧登米警察署を同じ造りにした理由
A2 同じ造りは玄関とバルコニーです。学校の造りは、「堅牢・質素」にというきまりがありました。その違いを実際にぜひ見つけてください。
Q3 なぜ洋風にする必要があったのか、和風でもよかったのでは
A3 洋風の必要性というよりも、より効率的に、より効果的、より快適な校舎のあり方を考えたのではないか。みなさんの学校校舎も、雨戸・障子のある和室に座っての授業の方が良かったかな。同時代ではガラスを初めて使ったといいます。
Q4 洋風の造りにしたのにレンガでなくなぜ木造にしたのか
A4 現在と違って流通が発達していなかったので、極力地元にある資材を使った。
Q5 なぜ和洋折衷の擬洋風建築にしたのか
A5 擬洋風と洋風は似ている言葉ですが違いますし、和洋折衷の擬洋風という言葉も、そぐわないような気がします。和風を基本に洋風のよいところを取り入れた和洋折衷の建物といえるものです。それも、日本を代表する棟梁(山添)が、実際にヨーロッパ・アメリカで勉強しての、うまく調和させた作品です。どこが洋風、どこが和風とか、和風を基本に洋風を取り入れた、または、洋風を基本に和風を取り入れたとなるとどちらともいえません。バルコニーの柱を見てください。ギリシャ風ですが、本当のギリシヤの柱は円柱に縦溝があります。四角の柱に縦溝は、山添氏が考えた和洋折衷です。このように、何かをすっかりそのまま真似たのでなく、ギリシャ風と和風を自分で作り上げたのでしょう。
Q6 洋風の意匠の中に和風を取り入れた手法とはどのような造りのことか
A6 上記・下記と関連があります。
Q7 洋風建築に和風も取り入れることのメリット A7 個人的な意見も入りますが、私は、和風を基本に洋風を取り入れていると思います。そして、それがうまく調和した和洋折衷であると。石の土台に高床式、すべての窓・出入り口は引き違い戸(ギリシャは開き戸)、漆喰壁に寄棟の瓦葺、板張り、腰板、すべての柱が通し柱などは和風です。それに、洋風のベランダ・ポーチ・欄干などを取り入れているのではないでしょうか。
※擬洋風建築の定義・・・外観は洋風だが、構造は和風
Q8 洋風建築なのに、屋根だけ和風にこだわった理由
A8 こだわるというより、あの時代、寄棟の屋根に瓦葺が一番よかったのではないでしょうか。
Q9 洋風文化はどのように登米に入ってきたか A9 洋風文化とは洋風建築のこととすると、100%、山添氏の設計が原因です。
Q10 昔の建物に吹き抜けのバルコニーが多い理由
A10 吹き抜けのバルコニーでなければ、通常の部屋になってしまいます。
Q11 洋風と和風建築で使う道具の違いは (文献)
Q12 なぜ当時を代表する洋風建築だったのか A12 設計した山添喜三郎は、日本を代表するような腕を持ち、ヨーロッパ・アメリカで建築様式を勉強してきた人。全国をあるき、各地の紡績工場を建ててあるき、宮城県で紡績工場と動力源の水力電所(三居沢発電所・水力では日本初)を建て、宮城県に勤めることになる。登米小学校は彼の代表作(和洋折衷を駆使)
Q13当時家庭も洋風建築に変わっていったのか (文献)
 
(5)白壁の蔵
Q1 白壁の蔵が白い理由、また交差しているような模様について(文献・見学)
A1 なまこ壁と言います。
 
(6)その他
Q1 大きな地震や洪水にあっているにもかかわらず、なぜ現状のまま残っているのか(配布文献の山添の項参照)
A1 吟味した瓦・全部が通し柱・日本古来の高床式・コンクリートでなく土台石・時間をかけての地盤づくりでしょうか。
 
W 春蘭亭
 
Q1 江戸時代の武家屋敷をどのように保存してきたのか
A1 登米の場合、保存というより、そこに実際に住んでいたことが保存に繋がっています。
Q2 江戸時代の武家屋敷の門構えがなぜ当時のまま残っているのか
A2 上記と同じ
Q3 武家屋敷とはどのようなものか
A3 藩政時代、武士が住んでいた家を武家屋敷と言います。
Q4 春蘭亭が他の武家屋敷と違う形式で作られた理由は
A4 水沢からの移築だったから。  
Q5 「直ご家形式」とはなにか、また「直ご家形式」にした理由
A5 直家とも書きますし、すごやと呼びます。
Q6 江戸中期に屋敷を移した理由
A6 主人が移れば家来も移る。春蘭亭の場合も、主人(当主)の移封により移り住んだ。   
Q7 そこに住んだ人の歴史 (見学)
Q8 鈴木将監重信公について(見学)
Q9 武家屋敷通りにはどれくらい武家屋敷があるのか
A9 戸籍上は桜小路、行政区は前小路で城下町のときはお城の正面の通りで、現在残っているのが8軒(門だけのところあり)です。
  
 
X 流通・輸送
 
(1)舟運一般
Q1 北上川の舟運が盛んになった理由
A1 400年前、河川改修をし、船が行き来しやすいようにしたこと。北から南にほぼ一直線に流れていること。藩政として船運の隆盛に取り組んだこと。
Q2 北上川の舟運の中心に登米が選ばれたわけA2 藩政時代、伊達一門(伊達家を支える11家)の城下町、人・物の流通拠点。
Q3 船の積み荷に重量制限はあったのか
A3 トンという呼び名は最近ですが、川は浅瀬があり、それに乗り上げると水が増水するまで動きがとれません。積荷を多くすると船底が下がり、危険度が増します。重量制限という呼び名を使ったかは分かりませんが、それと似たものはあったはずです。
Q4 なぜ時代の流れに抗しきれなかったのか AA4 東北全体の交通事情。1本の道路が経済を変えることがあるといいます。東北本線の盛岡(青森)までの開通は登米にとって、経済の流れからははずれてしまいました。
Q5 「心まかせに石巻下り、間の登米で中泊まり」という揚屋節の意味。
A5 どことどこの間かということは不明ですが、黒沢尻(現北上市)が南部藩と伊達藩の中継地点で、船も「おぐり」から「ひらた」に使い分けています。たぶん、黒沢尻から北上の流れにまかせて石巻をめざし、城下町・宿場町としてにぎわう登米で中休みということだと思います。
 
(2)登米丸
このことについては登米町史のみの資料となります
Q1 「登米丸」の名前の由来
A1 北上川沿岸の市町村の中には、自分の町の船をもっていたところがあります。そのため、登米では「登米」の名前を付けたのでしょう。
【参考】他の質問については文献を参照のこと
 
(3)ひらた船
Q1 ひらた船とはどういう船か
A1 「?」と書いて「ひらた」と読みます。現物は北上市の展勝地(北上川沿い)に1艘再現して浮かんでいます。黒沢尻(北上市)と石巻間を走っていた船で、各町で所有していました。詳しくは文献を。
 
(4)仙北鉄道
登米町史をご覧ください。
 
X 北上川治水
 
Q1 領地の惨状とはどのようなものだったのか A1 登米は葛西氏の居城があったが、1590年伊達政宗に滅ぼされ、焼け野原になり14年間人一人住んでいなかった。
【参考】他の質問については文献を参照のこと
・宗直が北上川の流路を変えようとした理由 (文献)
・宗直が新田開発をしたことによって、伊達家の収入はどれくらい増えたのか(123) (文献)
・堤防を作る前後の収穫高の違い(文献)
・堤防を築いた場所は現在どうなっているか(文献)
・なぜ野谷地が水田に変わったのか(文献)
・相模土手はどのようにして造られたのか(文献)
・相模土手は今も残っているのか(文献)
・6年の歳月を費やした大工事の費用は(文献)
・北上川治水大工事の前後の米の生産量の違いは(文献)
 
Y 産業経済
 
Q1 米が石巻に運ばれた理由
A1 石巻で大きな船に移し変え江戸に運ぶため
Q2 米は石巻に集められたあと、どのようなルートでどこに運ばれ、どこで売られたのか
A2 千石船で江戸に運ばれ、江戸市民の主食となった。
Q3 なぜ養蚕やみそづくりが盛んになったか (文献)
Q4 登米にはどのような特産物があったのか (取材)
Q5 立派な店蔵とあるがどんな品物があるのか
A5 蔵を改造した店、何屋さんでも
Q6 昔は米味噌醤油の他にどんな食品があったのか (取材)
Q7 白壁の蔵は何を入れておく蔵だったのか (取材)
Q8 老舗鰻屋が川の方を向いて立っていた理由 (取材)
Q9 伊達藩に米をどれくらい納めたのか (文献)
 
Z 登米町
 
Q1 登米の落ち着いた雰囲気の理由
A1 登米に住んでいる人は気がついていない人が多いと思います。きっと、400年前の町割り・・明治の建物・立ち木など町全体からある雰囲気だと思います。
Q2 なぜ宮城の明治村とよばれるのか
A2 上記の雰囲気に、学校・警察・県庁と明治の建物が残っています。それも、明治のときと同じ場所に建ったままです。
Q3 町の規模にしては旅館が多い理由
A3 城下町・宿場町で人の出入りが多かったためです。
Q4 登米はなぜ人が多く、教育に力をそそいだのか
A4 現在は人口が少なくなっていますがが、かつては物流の拠点でした。
Q5 なぜ文化財や文化遺産がいっぱいあるのかA5 決して多いわけではありませんが、すべてを大事に今に残しています。
Q6 物流の中心が移った理由
A6 東北本線等の鉄道の発達につきるでしょう。
Q7 登米をどうして「とよま」と読むのか
Q7 「遠い山」が語源です。「とおいやま」が「とよま」になりました。
Q8 建物が川のほうを向いている理由
A8 昔のことですが、お客様が利用しやすくしているからです。
Q9 登米町が重要文化財になるほどの建築物を造った理由
A9 これぞと思うものにお金をかけたのでしょう。
 
[ 人物
 
(1)山添喜三郎
Q1 山添喜三郎の人と建築家としての実績
A1 新潟県巻町(角見浜)出身、東京に出て建築を勉強。明治6年、日本で初めて万国博覧会(ウィーン)に参加の際、日本建築を建てることになり、その棟梁に選ばれる。ヨーロッパを巡り、洋風建築を勉強。明治9年のアメリカ建国記念万博で出品し、アメリカの建築を勉強。帰国後は紡績場を全国を転々として建てる。仙台では、三居沢に紡績工場とその動力源の発電所を建て(現在、見学に行くと説明が違うが、年配の人に聞くと話してくれる)、宮城県に建築技手として迎えられる。現存する建物は登米高等尋常小学校(代表作)・登米警察薯・鐘景閣(仙台茂庭)。
Q2 なぜ山添喜三郎に依頼したのか
A1 宮城県の技手だったからでしょう。
Q3 子孫はいるのか。
A3 仙台に娘さん二人いるといいます。 
 
(2)川村孫兵衛重吉
Q1 どんなことをした人か (文献)
 
(3)伊達宗直
【参考】配布した文献を参照してください。
 
(4)渡辺政人・・・登米町史
 
(5)松尾芭蕉・・・登米町史
 
[ 森舞台
 
取材と文献で
 
\ 水沢県庁
 
取材と文献で
Q1 なぜ一部分しか復元していないのか
A1 水澤県庁は明治9年以降、小学校・裁判所・老人福祉センターに使用している。その間に、県庁敷地は3分割され、現在残っている以外の棟は取り壊されている。
Q2 明治8年に庁舎が一関に移された理由
A1 新政府の方針でした。
 
 
] 登米懐古館
 
文献と見学で