2004年11月22日

No.1634「宮城県の旧登米尋常小学校で最も生徒が多かった時は、2000人」

■旧登米尋常小学校とは・・・
尋常小学校とは、宮城県北部にあり、明治21年に有名な建築家、山添喜三郎が設計した和洋折衷の木造校舎である
校舎としての役割が終わった後も重要文化財として、今も保存されている
尋常小学校で最も生徒が多かった時は、2000人を超したと言われている
■なぜ、2000人もいたのか?
1つは、登米町は経済的に裕福な家庭が多かったため、子供を学校に通わせる人が多くいた
2つ目は、明治30年に東京で戦争があったため、東京の児童が宮城県に疎開してきた。その児童たちが尋常小学校に来たため、明治30年、少しの間であるが、生徒が2000人になったと言われている
■疎開してきた児童たちは・・・
家族とは離れてしまったが、空襲などの心配もなく、とても良い生活だった
東京にいた時は、配給される芋やかぼちゃなど、ろくな物しか食べてなかったため、小学校の給食のあまりのおいしさに涙を流しながら食べる生徒も少なくなかった
■疎開してきた児童は不幸と幸せの連続だった
尋常小学校で生徒が2000人になったときは明治30年
その理由は、登米町には経済的に裕福な家庭が多かったため、子供を学校に通わせる人が多くいた。
もう1つは、東京で戦争があったため、児童が宮城県の尋常小学校に疎開してきた。
小学校が造られた明治21年は生徒が300人くらいしかいなかったが、明治30年には子供を学校に通わせる大人が増え、東京から児童が疎開してきたため、生徒が2000人になった。

投稿者 koriyama : 09:15 | コメント (9)

No.1633「教育資料館には、長い間同じものを使っていた教科書が残っている」

■いつ頃からどれくらいの間使われていたのか
約40~50年前後
大正時代の初めごろから、昭和時代初期まで使われた。
尋常小学校で使われていた本。
■このような教科書が使われていた
「ハナハト読本」
「尋常小学国語読本」
ずっと同じものを約40~50年間使っていた。
■教科書の内容は
「ハナハト読本」は、最初にハナ(花)とハト(鳩)という言葉を覚えるのでこの本の名まえになった。すべてカタカナで、簡単な言葉から覚える本。
「尋常小学国語読本」は、国語の本で、今の小学校は学ばないような難しい漢字がたくさん書いてある本。
■長い間使われていた本は、幅広い内容だった
「ハナハト読本」はとても簡単な物ばかりの内容だった。しかし、「尋常小学国語読本」は、いきなり中学生でもわからない漢字が出てきてとても難しかった。
その後新しい本が作られて使われなくなった。ちなみに、小学読本などは欧米の教科書を参考に作られた。

投稿者 koriyama : 09:14 | コメント (9)

No. 630「旧登米高等尋常小学校校舎の廊下は外にある。」

■確かに廊下は外にあった
尋常小学校は洋風建築の建物で明治21年10月に造られました。
校舎は全て木造の二階建てで、正面に向かってコの字型に造られていた。
廊下は、校舎の内側にあり二階には吹き抜けのバルコニーがあった。
尋常小学校とは宮城県登米町にある小学校のことです。
■尋常小学校は山添喜三郎が設計した
山添喜三郎とは、1843年に新潟県で生まれた近代建築のパイオニアで、宮城県の建築技術の基盤を固めた人物。
山添喜三郎はヨーロッパで、約一年間西洋建築を熱心に勉強し日本館のロンドン移築にも携わりました。
喜三郎の仕事ぶりは、瓦一枚一枚までこだわるほどだった。
■雨や雪の時はどうしていたか
廊下は、雨風が射し込みとても寒く冬には床が凍って、とても危険でした。
一階の窓には霜よけひさしがあり、すこしは冬の対策がされていました。
■尋常小学校はすごい人の造ったすごい小学校だった
尋常小学校は造られてから百年も経過している。
国指定重要文化財に指定されている。

投稿者 koriyama : 09:11 | コメント (4)

No.629「教育制度の意味が住民に伝わらなかった」


■教育制度とは
教え育てる仕組みの事で生徒が1000人もいて教師の人はいろいろと教えるのが大変だったのではと、思った。
■住民は教育制度の意味が分からなくて就学させる人が少なかった
住民は教育制度の意味が分からなくて不安に思った。
だから進んで就学させようとする人があまりいなかったため少なかった。
■教育制度が伝わらなかった理由
明治21年に初めて建てたから
町の人たちも開校した教育制度の意味がよく分からなかったんじゃないのかなと思った。
■明治の教育制度のスタートは厳しかった
明治21年に登米に初めて学校を建築し、尋常小学校として開校した。
明治時代に様々な面で洋風がとり入れられ、尋常小学校のバルコニーも洋風であった。
当時には9教科あり、修身、國語、算術、社会、理科、図画、唱歌、体操、裁縫という教科であった。
しかし実際には教育制度の意味が住民に伝わらなかった。

投稿者 koriyama : 09:11 | コメント (11)

No.1626「旧登米尋常小学校の校舎造りをコロニアル・スタイルという」

No.1626「旧登米尋常小学校の校舎造りをコロニアル・スタイルという」
■旧登米尋常小学校に詳しい方はこう語る
旧登米尋常小学校は明治21年10月に、二年半の歳月をかけて落成した
建設費は当時の金額で3500円、今の金額で8000万円。
生徒数は開校した当時で300人前後、最も多いとき(明治30年)には2000人をこえた
■コロニアル・スタイルとは・・・
アメリカ南部に伝わる欧米の建築様式である
バルコニー、吹き抜け廊下などにそれが見られる
山添喜三郎が洋風らしいデザインを設計した
■コロニアル・スタイルの効果は?
吹き抜け廊下のため、教室はとても明るくなった
欧米式のバルコニーは、学校のシンボル的存在となった
先生方の監視場や生徒たちの遊び場にも利用された
夏はとても暑く冬はとても寒かったため、具合が悪くなる生徒も多かった
■コロニアル・スタイルは機能性にすぐれた建築様式であった
旧登米尋常小学校は、明治の洋風学校を代表する建造物として昭和56年、国の重要文化財に指定された
平成9年には保存修復作業を行い、当時の教科書やつくえ・いす、なつかしい教室等を展示している
現在は教育資料館となり、多くの人が足を運んでいる

投稿者 koriyama : 09:08 | コメント (12)

No.623「昔の小学校の机のふたを開けると物入れになっている。」

■このことに詳しい社会科の先生に聞いた。
「これはなんですか?」
「これはですね。教科書入れですね。」
「そうなんですか。でも9教科全部入るんですか?」
「入ると思いますよ。でも、1日に9教科全部あるとは限らないですけどね。」
■そして、黒板の下には教壇もあった。
実際に上がってみると、そんなに高いという感じはしなかったが、教室全体が、一望できた。
それに、何故か大きいそろばんがあった。上って教室を見わたすと、偉くなった気がした。
■自分の考え
机のふたをあけると、教科書入れになってるなんて、すごくおもしろい発想だと思った。今の机もあんな風になれば楽しいと思った。
でも、2人で1つの机を使うのは、あんまり、よろしくないと思う。
教壇に関しては、今もあんな物があればいいなぁと思った。
昔の教室はおもしろみがあって、楽しかった。
■教科書が入る机や、教壇は、今には無い凄いアイディアだった
私もあんな机で、勉強してみたいと思った。
今回、尋常小学校に行ってみて、明治の学校について、いろいろなことが分かり、とても勉強になった。

投稿者 koriyama : 09:07 | コメント (12)

No.621「登米教育資料館には、超でかい張子のかにがある」

■登米教育資料館とは?
登米教育資料館とは、宮城県の『登米町』という所にある。
登米町は、宮城の明治村と呼ばれるだけあって古い町並みがならんでいる。
その一角にあるのが登米教育資料館である。
そして、2階のはじっこの教室に、かにはいた。
■近くにあった資料には、こう記されていた
運動会で使われたものらしい。だが、いつの物かという資料はなかった。
ちなみに、これは、その時の6年生が制作したものらしい。
それに、見た目的にも、だいぶガタついていたり、指で空けたと思われる穴がけっこう空いてたので、結構昔のものと考えられる。
■どうしてかになの?
どうしてかになの?ということで、係の人に聞いてみた。
「展示している分の資料には無いのだけど、かにといっしょに、鬼のはりこ、船の張子も作っていたそうだよ。あと、なんでかににしたのかという資料は、無いけど、あくまで私の予想だけど、やっぱり、おいしいものが好きだったんじゃないかな」と、笑顔で答えてくれた。
■いつの時代も、子供はおいしいものがすきだった
さっき紹介した、『どうしてかににしたのか』ということで、係の人は、「おいしいものが好きだったんじゃない?」と、答えてくれましたが、他の人にもきいてみた。すると、こう答えてくれた。
「作りやすそうだからじゃない?」と、分かりやすく答えてくれた。
答えてくれた皆さん、ありがとうございました。
とても勉強になりました。

投稿者 koriyama : 09:05 | コメント (7)

No. 618「登米にバルコニーのある洋風小学校がある。」

■尋常小学校の洋風建築とは
尋常小学校とは宮城県登米町にある明治6年にできた登米町初めての小学校である。
今は教育資料館となっている。
バルコニーがある。
吹き抜け片廊下がある。
六角形を半分に切った形の昇降口がある。
■なぜ、旧登米尋常高等小学校は洋風建築なのか
当時、洋風小学校が盛んに建てられたからである。
設計者が欧米の建築様式を取り入れて設計したことによる。
洋風の明るさと和風の品格が程よく調和している。
校舎はコの字型にしたことにより、校舎全体を伺い知ることができる。
■設計者について
旧登米尋常小学校は、山添喜三郎が設計した。
仙台の工事をとおして、建築家の山添喜三郎の手腕力量が高く評価され、宮城県の建築主任として、県庁職員に迎えられた。
■バルコニーはシンボル的存在
当時の旧登米尋常高等小学校のバルコニーは、洋風にしたことにより、校舎の中央にあって全体のシンボル的存在となっている。
ちなみに、郡山中のシンボルは”カリオン塔”である。

投稿者 koriyama : 09:04 | コメント (12)

No.614「明治時代小学校に就学させようという親は少なかった」

■初めての小学校が開校する
明治時代6年(1873年)6月、登米で最初の小学校、登米郡寺池村小学校が養雲寺を開校した。
当初は、新しい教育制度の意味が住民に充分には伝わらなかった。
女の子は、家の手伝いや家事があったので学校にいれる余裕などなかったそうだ。
また、授業料5000円だったので就学させる人は少なかった。
■学校の歴史についてこう語る
学問に関する最初の記録は、戦国の混乱が治まり、治水開墾事業も一段落した。
明和元年(1764年)登米伊達家八代村良の出した「学問の励み武芸を嗜むべき」
はっきりとした記録はないが、寺小屋や私塾なども開業していた。
しかしその後にはあいつぐ災害、凶作、飢餓などによって生活がますます苦しくなったと言う。
■就学率が高く
明治9年だんだん就学率が高くなっていき義務教育では、なかったけれども477人と県内最大となった。
住民にも少しずつ教育制度が伝わった。
明治31年、1888年には、1000人。戦時の学童疎開時には、2000人にもなった。
■しかし登米はすごい町だった
就学率が高くなるにつれ、読書、作文、習字、算術が、学習面になり、昭和39年1月には登米小・中学校、完全給食になった。
それが今までの間、少しずつ少しずつ、良い方向にと今に築いたのだと私は思う。

投稿者 koriyama : 09:01 | コメント (13)

No.613「登米の小学校は、明治9年、就学率が県内最大だった。」

■登米に詳しい資料にはこう書いてある
登米は宮城県石巻市にある明治2年8月宇都宮藩管下におかれた栗原県の一部と旧土浦藩取締り地で合わせてできた県である。
登米尋常小学校とういうと、明治に21年に造られた洋風建築を代表する建物である。
明治9年に登米高等尋常小学校は生徒数477人を数え、県内最大になった。
就学率はこうして最大になった。
小学校建設に多額の資金をかけたり、明治22年には町の予算の48%を教育にかけたりした。
■また、卒業者数を見ても教育にかける熱意・意識の高さが分かる
経済的に裕福な家庭が多かった。
義務教育ではないのに就学率が県内最大と言うのはすごいことだった。
明治9年(1866年)登米尋明常小学校の就学率は県内最大になる。
町は教育に対して多額の資金をかけた。
また舟運などが盛んだったため裕福な家庭が多かった。
■開校当初とその後について
開校当初は養雲寺での寺子屋でその後水沢県庁庁舎に移った。
さらに生徒数の増加にともない、明治21年(1881年)にこの尋常小学校の校舎が建てられた。
多いとき日は、生徒数が1000人を超えたときもあるという。

投稿者 koriyama : 09:01 | コメント (5)

No.610「明治30年に登米の尋常小学校は生徒が2000人いた。

■昔の学校について調べた。
机は全部木でできていた。
校長室のおいてある物は洋風の造りだった。
机を深く打ち込み、ねんど、砂、じゃり、石灰を混ぜ合わせていた。
このために地震や、洪水に耐えた。
■昔の学校の生徒数
昔は、1200人ぐらいの数だった。しかし、明治30年には、2000人を超えた。東京で
戦争があったために東京の生徒たちが宮城の学校に来た。そのために登米町の学校に来た。登米は経済的にも裕福だったので学校に通わす事ができたために、生徒数が増えていった。
■学制実施の大要
全国で中学校が二百五十六、小学校が五万三千七百六十の学校を設けるとした。
当時の教育制度はフランスの制度を参考にてできた。
最も力をいれたのは小学校であった。小学は満六才から、入学させた。
■疎開した児童たちは
家族とは離れたが、空襲などの心配もなく良い生活だった。
東京にいたときは、配給される芋や、かぼちゃなどの物しか食べていなかったために、
小学校の給食のあまりのおいしさに涙を流しながら食べる生徒も少なくなかった。東京からは、800人が疎開してきたために、2000人になった。

投稿者 koriyama : 08:59 | コメント (5)

No. 608「登米教育資料館は昔、電気がついていなかった」

■登米教育資料館について調べてみた。
昔の人はそろばんなどで算数をしていた。
昔の教室はほとんど木でできていた。
教室の中に角火鉢があった。
■教室の中はほとんど木でできていた
教室のいすやつくえなどは 木でできていた。
他にも角火鉢というものがあり教室の中を暖めて勉強していた様子がうかがえる。
昔の机の引き出しは今のようなものではなく木のふたになっていた。
■昔の教室について
昔の電気は豆電球みたいなのだった。
いすや机などは全て小さかった。
教室の広さは今と同じくらいだった。
■今と昔の教室の違い

投稿者 koriyama : 08:57 | コメント (6)

No.607「明治の小学校は、9教科あった」

■明治の小学校とは・・・・・・
明治六年(1873)六月宮城県、登米町で最初の小学校登米郡寺池村小学校が、養雲寺を校舎に開校した。
明治八年(1875)11月町村合併とともに、寺池村小学校は第一番小学校になった。
それから4年後には、登米小学校になり、さらに8年後には、登米高等尋小学校になった。
■どんな科目があるのか
修身、国語、算術、地歴、理科、図画、唱歌、体操、裁縫がある。
今現在は、国語、算数、社会、理科、体育、図工、総合、生活だ。
■それぞれどのくらい授業数があるか
修身は、1から6年まで2回、国語は、それぞれ違うが、平均で10回。
算術も、それぞれ違うが、平均で6回。
地歴は、平均で1から3回。
理科は、平均で1から2回。
図画は、1から6年まで、1回。
唱歌は、平均で1から4回。
体操は、平均で1から4回。
裁縫も、平均で1から4回だった。
■実際に行ってみた
実際に行ってみると・・・・。
一階展示室に実際に展示してあった。
やはり9教科あった。

投稿者 koriyama : 08:57 | コメント (12)

No.606「明治時代の教室の中の物品はほとんどが木制の物だった。」

■おもに木が、使われたもの
イスや机、教室に入る時の戸など。
教室の外では、廊下、建物を支えている柱、さくなど。
ちなみに、当時の机には、引き出しというものはなく、机の上のふたを開けて、教科書などを入れていた。
■教室の中には角火鉢というのもあった
やはり、この角火鉢も木製だった。
角火鉢とは?四角形で中に、炭火などを置き、部屋などを温める物。
冬には、この角火鉢で温まりながら、一生懸命勉強していたと、言われている。
■昔の校長室は?
当時の校長室は、普通の教室よりかなり小さかった。
やはりだいたいの物は、木製だった。
関係はないが、微妙に校長の部屋の銅像が、「野口英世」に似ていた。
昔、校長先生は、あんな小さな教室で、仕事をしていたんだと思う自分であった。
■昔の物品は木製が多かった
昔、イスや机やドア、柱やさくなど、木製の物が、多く使われていた。
当時、イスや机が小さかったり、机の引き出しがなかったりと今とけっこう違うところが、あった。
昔冬は、角火鉢という火鉢で、あたたまりながら、一生懸命勉強していたと言われている。
当時の校長室にも、多少は、木製の物が、置いていた。それと、以外と小さかった。

投稿者 koriyama : 08:55 | コメント (6)