2004年11月22日

No.622「建築家の山添喜三郎は屋根の上で一夜を過ごしたことがある。」

■山添喜三郎のことが書いてある資料のエピソード
天保十四年九月十五日新潟県角海浜に生まれ、とても腕のいい天才大工で仕事には極めて忠実な人だった。その結果、工事に対してはずいぶん厳しかった。
ある日検査のため屋根に上がった時の出来事で、屋根の上で一夜を過ごすことになってしまった。
■山添喜三郎はこうして屋根の上で一夜を過ごすことになった
工事の厳しさから山添喜三郎に恨みを抱く者がいて、検査のため梯子で屋根に上がったところ、梯子を外され下に降りられなくなった喜三郎は、その日の夜、屋根の上で一夜を過ごすことになった。
■山添喜三郎はすごい建築士だった
山添喜三郎が建築した登米警察署や水沢県庁は、喜三郎がいろんな人に恨まれながらもがんばって造ったかいがあり、今は歴史資料館になり観光客に親しまれている。
■山添喜三郎は建築に人生をかけたすごい大工だった
山添喜三郎はとても腕のいい大工で、工事にはとても厳しかった。
検査のため梯子で屋根に上ったときに、梯子をはずされ降りられなくなり、その夜屋根の上で一夜を過ごした。
山添喜三郎が造った登米警察署や水沢県庁は今、歴史資料館になっていた。

投稿者 koriyama : 09:06 | コメント (5)

No. 612「山添喜三郎はウィーン万国資料館に大工の棟梁として参加した。」

■山添喜三郎に詳しい方はこう語る
建築家山添喜三郎は、天保十四年九月十五日に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたとされている。
大工として建築を志し、腕も相当なものであったらしく、明治5年(1872)年オーストラリアのウィーンで開催された万国博覧会に大工の棟梁として政府から出張を命じられた。
■尋常小学校を手掛けた人は・・
尋常小学校を手掛けた人は山添喜三郎によるもので、明治の洋風事務所建築としては極めて珍しいもので、昭和62年県の重要文化財に指定されました。
構造は木造二階建て下見板張り白ペンキ塗り寄棟の瓦葺で突き出した玄関は上下とも吹き抜けで二階部分はバルコニーとなっています。
■語り伝えられるエピソード!
屋根に使う瓦は1枚1枚重さを測り、これを一夜水に漬けて、翌日又重さを測って給水量を調べ、一定以上の量目の瓦はすべて不合格としてハネたといわれ、そのため納入する瓦屋は次々と倒産したと伝えられている。
工事も洋風建築洋式が多く、工夫になれていない大工の苦労もなみたいていではなかった。そのため予想以上の手間ひまがかかり、工事請負をした大工棟梁は家財を売り払っても借財が残り、ついに夜逃げ同様にこの地を立ち去らなければならなかった。
■山添喜三郎はどういう人?
山添については、数々のエピソードは、単に彼の仕事ぶりを非難するものではなく、彼が職務に忠実あり、校舎建築の重さをよく自覚して、後世に残る立派な建物を造る事にいかに専念したかを伝えるもので、むしろ当時の請負業者や職人に理解されなかったことから起きたトラブルであり、現在町民はむしろこのような彼の妥協を許さない態度によって、はじめて今日まで残る堅牢優美な校舎できたものであるとして敬意と感謝を込めて語り告がれているものである。

投稿者 koriyama : 09:00 | コメント (3)

No.1611「山添喜三郎は・・・・みんなに嫌われていた」

■山添喜三郎の事に詳しい方はこう語る
山添喜三郎は材料にこだわった。
材料を作る会社を倒産させるなど材料に対する思いが、人一倍凄かった。
それで会社の人に嫌がられるようになっていった。
屋根の上に上がっていたら材料を作る会社の人に梯子を取られて屋根の上で一夜を過ごしたこともあった。
■なぜ、喜三郎は嫌われていったのか
瓦にもこだわった。
瓦は、1枚1枚重さを測りそれを水につけて一夜漬けにして、翌日又重さを計って吸水量を調べて一定以上の量目瓦はすべて不合格とした。
そのため納入する。瓦屋は次々と倒産したと伝えられている。
■山添喜三郎の一生
山添喜三郎は1843年新潟県に生まれた。
喜三郎は31歳松尾伊兵衛とともにウイーン博覧会の日本館造営を命ぜられ渡欧した。
喜三郎は1932年に亡くなった。
■喜三郎は頑固親父だった
どんな小さなミスもけして見逃さなかった
お酒とラーメンが大好物だった。
喜三郎は偉大で、すごいひとだった
喜三郎は本当はとっても優しい人だった。娘にとっても甘かったという。
厳しかったが、そのため今も明治の建物を今も見ることができる。
建物は登米の誇りだ。

投稿者 koriyama : 08:59 | コメント (13)

No.604「昔、瓦屋が次々と倒産した時があった。」

■山添喜三郎に詳しい資料にはこう書いてある
建築家の山添喜三郎は天保十四年九月15日に生まれた。
山添喜三郎は仕事には極めて忠実で工事に対してとても厳しくそのせいでこのようなエピソードがある。
■こうして瓦屋が倒産した
昔、屋根に使う瓦は1枚1枚重さを測り、一夜水に漬けて、翌日又重さを計って吸水量を調べた。
一定以上の量目の瓦はすべて不合格とされた為、納入する瓦屋が次々と倒産した。
■仲間の大工について
山添喜三郎の仲間の大工の佐藤朝吉は、同二十年登米高等尋常小学校校舎の新築工事に当たり先輩の三嶋秀之助と共に建築工事の大工請負となった。
生涯の大事業として心魂を注いで請け負った登米高等尋常小学校の校舎は落成した。
朝吉は貸金支払いなどで、その財を尽くしたため朝吉は夜逃げをした。
■旧登米尋常小学校には瓦屋と大工の悲しい物語があった
朝吉は財を尽くして夜逃げをした。
朝吉と喜三郎が工事した登米高等尋常小学校は落成した。
山添喜三郎は建築などの工事に対してとてもきびしかった。
喜三郎は瓦を一枚一枚重さを測り一定以上の量目の瓦は不合格とされたため瓦屋がとても悲しい思いをした。

投稿者 koriyama : 08:53 | コメント (5)