2004年11月24日

No.234「山添喜三郎は屋根から降りれなくなったことがある」

■山添喜三郎は川の中へ人力車ごとなげられたことがある
恨みを抱く業者からあるとき川の中へ人力車ごと放り込まれたという。おそらくものすごくイッタかったのだろう。
■山添喜三郎建築材料のこだわりはものすごかった
屋根に使う瓦は一枚一枚重さを量りこれを一夜水に漬けて翌日又、重さを計って吸水量を調べ一定以上量目の瓦はすべて不合格としてハネたといわれている。
そのため収入する瓦屋はつぎつぎと倒産したとていう。
■山添喜三郎は屋根から降りれなくなったことがある
工事の厳しさから山添に恨みを抱くものがいて検査のため屋根に上った所、椅子をはずされて昼食になっても夕方になっても下に降りれなくなったこともあるという。
このことから山添は人から恨まれていたことがわかる。
■山添喜三郎はすばらしい人物だった
自分の仕事に誇りをもっていて自分がなっとくいくまでいいと

投稿者 koriyama : 11:21 | コメント (18)

No.219「山添喜三郎は、ちょっと時代遅れだった。」

■山添喜三郎とは、
ヨーロッパ建築を学んだ建築技師
登米の旧小学校や、旧警察署などを手がけた。
大正12年に、永眠しました。
■資料によると
山添は、ヨーロッパへいき擬洋風建築を学んだ
そこでは、擬洋風建築の第一人者だった。
だが、帰ってきたころには、辰野金吾、片山東熊たちがすでに洋風建築をひろめていた。
都会などではすでに広まっており、県外に派遣され、登米で活躍!
■その結果
宮城県登米町では、腕を評価され、登米旧小学校、旧警察署をてがけた。
他に、仙台では紡績会社の建築もてがけた。
今では、旧登米小学校や、旧登米警察署などが、重要文化財になり大切に保管されている。
■まとめ・感想
山添喜三郎さんは、少し時代遅れではあったが、瓦一枚にこだわるなど、丁寧な、建築技師であることがわっかた。
今回このことを調べて、少し遅れても丁寧にやることが大事ということがわかった。

投稿者 koriyama : 11:06 | コメント (13)

No.212「山添喜三郎はバルコニーに力をいれた。」

■山添喜三郎
31歳の時尾伊兵衛ともにウイーン博監会の日本館造営を命ぜられ渡欧。
天保十四年九月一五日に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたとされている。
■教育資料館の人に聞いた話。
教育資料館の人に聞いた話では、バルコニーは大切な資料館のシンボルである。
バルコニーからは全校舎が見え、北上川が見えるからバルコニーはいろいろな事に使うので、もっとも力をいれ造った。
■山添喜三郎がバルコニーに力を入れたところ
洋風欄干付きの手すりを廻し、風雪による腐食を防ぐために全面に亜鉛板を敷き詰めている。
ギリシャ風の渦巻き模様が柱頭に飾られている。
■山添喜三郎の造ったバルコニーは大物だった。
山添喜三郎はバルコニーに洋風をいれ、いろいろな所に工夫をし、教育資料館のシンボルにもなった。
山添喜三郎をどんどん調べていくうちに山添喜三郎のいろいろな事がわかりました。
なぜ今の教育資料館に洋風を入れた事や警察資料館と同じ造りにしたかなどわかった。

投稿者 koriyama : 11:01 | コメント (11)