2004年11月24日

No.429「登米警察署は、山添喜三郎が建設した。」


■登米警察署
明治22年に建てられ昭和43年まで登米警察署として使われた。
洋風をとりいれた木造二階建て。
外壁は板張りにペンキぬり、屋根は寄棟ずくり、桟瓦西葺き。
■警察署の建設
明治22年に建てられ昭和43年まで使われた。
明治中期の擬洋風建築として極めて珍しく貴重な文化遺産であり、警察署と教育資料館いがいは、解体撤去され建築家山添の記念碑ともいえるものである。
昭和63年に現在の姿に復元された。
■山添喜三郎とは?
1843年に生まれ31歳の時、松尾伊兵衛と、ともにウイーン博覧会の日本館造営を命ぜられ、渡欧。
帰国後農商務少の役人となり建築の指導に当たっていたが、
山添は、登米警察署のほかに佐沼小学校、飯野川学校、旧登米高等尋常小学校(今の教育資料館)
■山添喜三郎エピソード
屋根に使う瓦は、一枚一枚重さをはかり、これを一夜水につけて翌日又重さを計って吸水量を調べ、一定以上の量目の瓦はすべて不合格としてハネたといわれ、そのため納入瓦屋は次々と倒産した。
工事も、洋風建築洋式が多く、工法になれていない大工の苦労もなみたいていではなかった。

投稿者 koriyama : 10:25 | コメント (7)

No.423「仕事は完成したが借金が残った大工がいる!」


■借金が残った大工とは!?
工事も洋風建築が多く、工夫になれていない大工の苦労もなみたいていではなかった。
そのため予想以上に手間ひまがかかり、工事請負をした大工棟梁は家財を売り払っても借財が残ってしまったからだった。
その他、工事の厳しさから山添に恨みを抱く者がおり、検査のため屋根にあがったところ、梯子をはずされて昼食になっても、夕方になっても下に降りられなくされたとか。或は恨みを抱く業者から、あるとき川の中〔或は堀の中〕へ人力車もろともにほうりこまれたこともあった。
■建築家の1人、山添喜三郎について!
山添喜三郎とは明治5年29才の時にウィーンで開かれた万国博覧会に日本家屋建築し、好評をえるなど、若いうちからすぐれた才能を発揮した建築家である。
登米に今も残っている、洋風建築の代表作が残っている。
■山添喜三郎について!
建築家山添喜三郎は、天保14年9月15日に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたとされている。大工として建築を志し、腕も相当なものであったらしく、明治5年〔1872〕にオーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に大工棟梁として政府から出張を命じられ、時の「政府御雇い外国人」であるゴドフリード・ワグネルに従ってウィーンに行き、会場に日本家屋を建築し、多くの外国人の目を見張らせるとともに日本の芸術文化の素晴らしさを認識させたといわれる。
■山添喜三郎についての数々のエピソード
単に彼の仕事ぶりを非難するものではなく、彼が職務に忠実であり、校舎建築の重さをよく自覚して、後世に残る立派な建物を造ることにいかに専念したかを伝えるもので、むしろ当然の請負業者や職人に理解されなかった事から起きたトラブルであった。
現在町民はむしろこのような彼の妥協を許さない態度によって、はじめて今日まで残る堅牢優美な校舎が出来たものであるとして敬意と感謝を込めて語り継がれているものである。

投稿者 koriyama : 10:20 | コメント (7)

No.421「山添喜三郎は屋根に取り残されたことがある。」


■山添喜三郎について調べてみた
山添喜三郎とは明治5年29才の時にウイーンで開かれた万国博覧会に日本の建築を出品て好評をえるなど、若いうちからすぐれた才能を発揮した建築家である。
登米町に現在も残る、洋風の建築の代表作は「登米高等尋常小学校」や
「登米警察署」などです。
■山添喜三郎はこうして屋根に取り残された
工事の厳しさから山添喜三郎に恨みを抱く者がいて、検査のために上ったところ、梯子をはずされて昼食になっても、夕方になっても下に降りられなくなった。
他にも恨みを抱く業者から、ある時川の中へ人力車もろともほうり込まれたこともあったという。
■その他のエピソードは
山添喜三郎には、この2つだけではなくいろいろなエピソードが伝えられている。
瓦の吸水量のことで瓦屋が倒産したというエピソード
建築材料である木材も検査が厳重でそのため木材供給業者は家産をかたむけたというエピソード
■屋根に取り残された山添喜三郎はとても熱心な建築家だった
山添喜三郎は屋根に取り残されるほど、とても仕事に熱心だった。
このエピソードは山添喜三郎の妥協を許さない態度によって、はじめて今日まで残るすばらしい建築物が出来たものであるとして敬意と感謝を込めて語り継がれているエピソードである。
このトリビアをつくって山添喜三郎がとても熱心な建築家であることが分かってよかった。

投稿者 koriyama : 10:18 | コメント (5)

No.418「旧登米警察署と旧登米高等尋常小学校は兄弟である。」


■旧登米警察署について調べてみた
明治21年に建てられ昭和43年まで登米警察署として使われていた。
登米警察署は巧みに洋風建築を取り入れている建築物である。
現在はパトカーや白バイ、制服、装備等が展示してある日本唯一の警察資料館である。
■旧登米高等尋常小学校について調べてみた
明治22(1888)年に建てられ昭和54年新校舎落成とともにその役割を終えたがその後仮校舎としてつかわれ昭和62年から保存修理を行い平成元年に教育資料館として一般に公開されている。
尋常小学校は明治中期の地方文化の結晶。
■なぜ兄弟か調べてみた
警察署、小学校ともに設計した人が山添喜三郎という人物で完成した年が1年しか違わないからです。
どちらも洋風建築を取り入れた建築物です。
特徴的なのがどちらも二階に吹き抜けのバルコニーがあるからです。
■山添喜三郎が警察署と小学校を建てた
警察署、小学校を設計した山添喜三郎という人物はウィーン万国博覧会に日本から派遣された人物である

投稿者 koriyama : 10:16 | コメント (5)

No. 413「山添喜三郎の建築人生は和と洋のミックスだった


■建築家の山添喜三郎
新潟県巻町「角見浜」出身
東京に出て建築を勉強
日本で初めて万国博覧「ウィーン」に参加
日本建築を建てることになり、れんちく選ばれる
■洋風建築への道
洋風建築を勉強
明治9年アメリカ建国記念万博で出品しアメリカの建築を勉強
■帰国後紡績場を全国転々として建てる
仙台では、三居沢に紡績工場とその動力源の発電所を建てる
宮城県に迎られる
建築技手として迎られる
現在残っている建物は登米高等尋常小学校「代表作」
登米警察資料館
金童景閣「仙台芝庭」
■山添喜三郎の人生は和と洋のミックスだった
現在、見学に行くと説明がちがうが年配の人に聞くと話てくれる
登米高等尋常小学校と警察資料館は和洋折衷
仙台に娘が二人いる
和洋折衷は山添喜三郎が考えた
明治21年10月に尋常小学校が完成した

投稿者 koriyama : 10:11 | コメント (6)

No.408「旧登米尋常高等小学校と旧登米警察署の玄関とバルコニーは同じ造り。」


■旧登米尋常高等小学校とは
旧登米尋常高等小学校は、宮城県登米町にある国指定重要文化財で、現在は、教育資料館になっている。
学校の造りは「堅牢・質素」というきまりがあった。
屋根の中央部に四・六・八角形の塔屋がある。
校舎は、木造二階建て、コの字型。
中央正面には、白いバルコニーのついた玄関がある。
■旧登米警察署とは
旧登米警察署は、宮城県登米町にある宮城県指定文化財で、現在は、警察資料館になっている。
洋風の警察署庁舎としては県内唯一。
寄棟造りで瓦葺きになっている。
二階にはバルコニーがあり、当時の人々からは「遠見台」といわれていた。
■小学校と警察署を設計したのは山添喜三郎という人物だった。
もともとは大工だった。
宮城県建築技手だった。
後に技師となった。
ウィーン万榑から日本館建設のため渡欧し、帰国した。
旧登米尋常小学校と旧登米警察署を建設した。
旧登米尋常小学校と旧登米警察署は、同じ人物が設計した疑洋風建築だった。
■旧尋常高等小学校では、玄関とバルコニーはシンボルだった。
旧登米警察署のバルコニーは、当時の人々から親しまれていた。
この二つの建物の設計者は山添喜三郎。
山添喜三郎は、構造は和風で洋風の利点を取り入れて設計していた。
バルコニーが造られた理由は、眺めがいいということや、洋風っぽく見せるためなどいろいろあった

投稿者 koriyama : 10:03 | コメント (2)

No.404「山添喜三朗に納入した瓦屋はすべて倒産した。」

■山添喜三朗とは
1843年9月15日、新潟県西浦原郡角海浜村に生まれた。
大工として建築を志し、腕も相当なものであった。
明治5年にオーストラリアのウィーンで開催された万国博覧会に大工棟梁として政府から出張を命じられ、時の「政府御雇い外国人」であるゴドリフリード・クグネルに従ってウィーンに行き、会場に日本屋敷を建築し、多くの外国人の目を見張らせるとともに日本の芸術文化の素晴らしさを認識させたといわれる。
■なぜ瓦屋が倒産したのか
山添喜三郎は仕事に極めて忠実で、その結果、工事に対してはずいぶん厳しかった。
そのため、屋根に使う瓦は1枚1枚重さを測り、これを一夜水に漬けて、翌日又重さを測って吸水量を調べ、一定以上の量目の瓦は全て不合格としてはねられたといわれる。
納入する瓦屋は次々と倒産したと伝えられている。
■山添喜三郎の数々のエピソード
山添喜三郎についてのエピソードは、単に彼の仕事ぶりを非難するものではなく、彼が職務に忠実であり、校舎建築の責任を重さを自覚して、いかに立派な建物を残すかに専念していたかが伝えられている。
山添喜三郎のエピソードはその頃の請負業者や職人が彼の仕事の意味を理解しなかったことから起きたトラブルだった。
■山添喜三郎ある意味凄い人だった
工事の厳しさから山添に恨みを抱く者もおり、検査のため屋根に上ったところ、梯子を外されて昼食になっても、夕方になっても下に降りられなくなったこともあった。
山添は大正12年3月16日に永眠した。享年81歳とあり、仙台市東十番丁天神下にある栄明寺に葬られている。
山添が設計した小学校は今でも災害にも耐え、教育資料館として、当時の姿を見ることができる。

投稿者 koriyama : 09:56 | コメント (4)