2004年11月24日

No.434「明治時代の教科書はカタカナが多い。」

■実際に聞いて見た
現代人には、カタカナの教科書は、とても読みにくい。
しかし、この時代の人々もカタカナの教科書は、読みにくかったのではないのではないのか。
■実際に見てみた
今から約100年ほど昔、新5000円札の肖像画の樋口一葉が小学生の時,当時の教科書は、カタカナがとても多く、漢字は一字~三字までなのだ
その漢字はとても古く,読みにくかった。
■当時の写真をご覧ください
明治時代の教科書はカタカナが多い。
教科書は、江戸~明治前半まではカタカナの教科書を、学習に使用していた。
ちなみに、明治時代後半には漢字が増えた。

投稿者 koriyama : 10:29 | コメント (8)

No.431「昔の教科書は全学年6冊だった。」

■昔の人々について、
昔は、お金がなくて2人で1冊だった。
むかしの子供たち浴衣を着ていたらしい。
■今の教科書について
今の教科書は、一学年と二学年は国語、算数、生活科、音楽、書写、図工、体育などです。
三、四、五、六学年は、国語、算数、理科、社会、体育、家庭科、図工、書写、音楽などがあった。
■昔の教科書について
昔の教科書は、一学年と二学年は国語、算数、生活科、音楽、書写、図工です。
三学年と四学年と五学年と六学年は、国語、算数、理科、社会、音楽、書写です。
昔はカタカナが多かった。
■昔の教科書は全学年6冊だった。
昔の教科書は、本当に6冊だった。
昔から今まで全然変わらなかった。体育や家庭科が増えただけです。

投稿者 koriyama : 10:27 | コメント (6)

No.430「明治時代の教室には照明の施設がなかった。」


■明治時代の学校について
教育資料館は明治21年に建てられた洋風学校建築を代表する建物である。
洋風にしたのは一部で、いろんな様式のいい点をとりいれた学校である。
この学校の建築費は3500円で、総事業費は5874円である。
この学校をつくり終わるまでにかかった時間は、506日である。
■教室内の主な様子
明治時代の学校は狭く、机がつながっていた。
明治時代の学校の教室には照明の施設がなかった。
教室にはほとんどがカタカナで書いてある国語の教科書があった。
教室には現代の教室にも置いてあるピアノがある。
■照明の施設がなくて困ったことは
照明の施設がないので天気が悪く、暗い日などは教室内が暗く、授業をするのが大変だった。
天気が良い日は外からの光が入ってくるのでそれなりに見えた。
天気が悪い日は、教室内が暗いので、子供達は教室内で遊びにくかった。
ピアノなどを弾くときは教室内が暗いので大変だった。
■明治時代の生活は照明をはじめは現代の生徒よりも大変だった。
現代の教科書はひらながや漢字などで使い分けているので見やすいが、明治時代の教科書はほとんどがカタカナで書いてあるので読みにくいと思った。
登米の小・中学校は昭和39年1月まで完全給食ではなかったので、それまでは大変だと思った。

投稿者 koriyama : 10:26 | コメント (7)

No.428「教育資料館の一部の窓ガラスは再現したわけではなく、当時からゆがんでいる」


■ガラスについて調べて見た
一般的な窓ガラスは珪砂は70%以上+石灰石+ソーダ灰などを溶かして固めたものである。
教育資料館の二階の再現教室の窓ガラスがゆがんでいた。
■窓ガラスがゆがんでいる理由は
ゆがんでいる理由は特になく、当時は窓ガラスはゆがんでいるものしかなかった。
百年以上も前に建てられ様々な地震や洪水にあっても少しの狂いも見られないくらい頑丈です。
ちなみに再現教室の窓ガラスは大正時代のものです。
■今と昔の窓ガラスの長所・短所
今の窓ガラスの長所は少しの衝撃では割れないで今の窓ガラスの短所はガラスの破片が鋭く危ない。
昔の窓ガラスの長所は採光が十分入るところで昔の窓ガラスの短所はガラスを通して物が見えない。
■ゆがんでいる窓ガラスは特に意味はなかった
ゆがんでいた窓ガラスは教育資料館の二階の再現教室にあった。
当時は窓ガラスはゆがんでいるものしかなかった。
明治時代から使っていた窓ガラスが一回も割れていないなんて驚きだった。
これからも窓ガラスを大切に使ってほしいと思った。

投稿者 koriyama : 10:24 | コメント (5)

No.426「昔の学校にはノートがなかった。」


■昔のノートは何か調べてみた
「ノート」とは、黒板に書いてあるのを写したり、計算したりするもので、今では欠かせない学習用具だ
だが昔は、ノートなんて物はなかった。」
そのかわり「石盤」というのがあった。
「石盤」は地域でとれた「ゲンジョウ石」できている。
■「石盤」とはどんな物か?
昔の学校には、教科書はあるが、「ノート」は見当たらない。
机の上には、長方形の小さい黒板みたいな物がおいてある。
これが当時の、「ノート」変わりの「石盤」!ちなみに色は緑でした。
昔のノートは、黒板みたいなものでチョーク代わりに石筆が使われていました。チョーク代わりなので今で言えば黒板消しみたいな物で書いたものを消していたと思います。
■「石盤」の評判は?
昔の人達のころは「ノート」なんてものがなかったので、書く物があるだけよかったと思う。
今のノートは引っ張ったりするとやぶれるが、昔のノートは石でできているのでとてもがんじょうだった。
■「石盤」はかかせない学習用具だった。
「石盤」は、登米の教育資料館の中の「再現教室」にあった。
今とはちがい、昔らしさのある教室で、とてもなごみやすい。
今の人は、昔使われた「石盤」などを見ると、「こんなの使ってたの」などと思うが、昔は、とてもかかせない学習用具だった。

投稿者 koriyama : 10:23 | コメント (9)

No.425「登米では明治9年の小学校では生徒477人にたいし教員7名だった。」


■こうして授業をやっていた。
当時の教科書は文字がカタカナだった。
教科伝習所をつくり、教員を養成してそして代理の教員として授業をやっていた。
■昔は・・・・・
当時477人という数は、裕福な家庭が多かったから。
当時、小学校建設に多額の資金をかけていた。
登米の小・中学校が完全給食になったのは昭和39年1月からだった。
開校当時は、生徒300人余りだった。
■教育について・・・
明治22年には町の予算48%を教育にかけていた。
当時の授業は読書・作文・習字・算術などだった。
当時は、教育にかける熱意・意識が高かった。
明治31年(1888)には、なんと!!1000人を超えていた。
■登米では明治9年の小学校では生徒477人にたいし教員7名だった。
当時は、ちゃんと資格を持っていた教員は7名だった、だがその人数ではたりなかったため教育伝習所などからようせいをえて代理の教員として授業などをやっていた。
今と変わらないことは、教育にかける熱意などは今と同じだった。
そして子供にいろんなことを学んでほしいという気持ちも感じられる。

投稿者 koriyama : 10:22 | コメント (4)

No.422「登米は、明治9年に県内最大の小学生がいた。」


■登米に詳しい人はこう語る。
登米の就学率は高かった。
義務教育ではなかったのに県内最大の477人を記録した。また、明治21年(1888年)生徒の増加により水沢県庁にあった小学校からこの尋常小学校ができた。
尋常小学校ができるまえは水沢県庁で勉強していた。
■町や親が予算の48%を教育にかけた。また、足りない分は他にも国庫からも補助金を得ていた。
熱意や意識の高さがあったからこのような記録をだした。また、多くの家庭は裕福な生活だった。このような意識や熱意で生徒が増大し最初に勉強していた水沢県庁ではなく尋常小学校ができた。
■県内最大の小学生がいた登米は教育にかける熱意はすごかった。
明治9年に県内最大の生徒を記録したことは親の教育にかける熱意があったから。また、尋常小学校ができ、1000人もこえることがあった。
教育のために多額のお金をかけ町や親の予算の48%を教育にかけ、国庫からも補助金を渡し、みんなの協力があったからできた記録だ。
また、今の親も昔の親も教育の勉強について同じ考えだ。
■県内最大の小学生がいた登米は教育熱心だった。
この時代、多くの家庭は裕福な生活が多かった。
登米が県内最大の小学生を記録した明治9年(1876年)は多額の資金を教育にかけ、また、町や親も教育に48%をかけた。
実はほかにも国庫からも補助金を得ていた。

投稿者 koriyama : 10:19 | コメント (7)

No.419「明治時代の小学校は男子が圧倒的に多かった。」

■登米小学校の場合
明治9年の頃の登米小学校は全校477名で県内最大だった。
男子394名、女子83名と男子がとてもおおかった。
その後は1000名を超えることもあった。
生徒数477名に比べ教員7名ととても少なかった。
■ちなみに当時仙台では
上谷刈小学校 教員2人 生徒92人中 男子90人女子2人。
小泉小学校 教員2人 生徒144人中 男子134人女子10人。
立町小学校 教員3人 生徒455人中 男子259人女子196人。
■ちなみに当時仙北地方のある村では
三高野小学校 教員3名 生徒104人中 男子99人女子5人。
八幡小学校 教員2名 生徒99人中 男子91人女子8人。
田尻小学校 教員2名 生徒106人中 男子78人女子28人。
・・・と圧倒的に男子が多かった。
■やはり明治時代の小学校は男子が圧倒的に多かった。
この頃は、みんな貧しかったため、親の業務を助けるために、昔は学校に入る人が少なかった。
特に女子は、家事手伝いだけでなく、学校に入るにはいろいろお金がかかるため、親の負担を少しでもすくなくするように学校に入らなかった。
昔の女の子は家のことも考えていて偉いと思った。

投稿者 koriyama : 10:16 | コメント (4)

No. 417「明治時代の尋常小学校は、県内最大の小学生がいた。」

■登米に詳しい人は、こう語る
義務教育ではなかったのに、児童数が477人もいて県内最大の人数だった。
登米の就学率が高かった
■登米の人は、教育熱心
町の親は、小学校建設に多額の資金のかけた。明治22年には、町の予算の、48パーセントを教育にかけた。親や町の人は、子供たちの教育にかける熱意、意識が、高かった。
■昔の人は、経済的に裕福な家庭が多かった。
たくさんの協力
明治9年に県内最大の生徒を記録した事は
親の教育にかける熱意、意識がすごかったから。
教育のために、多額の資金をかけ町の48パーセントの予算を、教育にかけ、皆の協力があったから出来た事だった。
■今の親と昔の親の気持ち
今の親も、昔の親も、子供に勉強もそうだけど何事もがんばってほしいという気持ちは、同じだった。

投稿者 koriyama : 10:15 | コメント (11)

No. 1415明治時代にはノ一トがなく洋風な建築なのか


■明治にノ一トがあつたのか調べてみた
調べてみるとたしかにノ一トがなかった、ノ‐ト
の代わりに、黒板を小さくした物で、書いていた。
■教育資料館は、洋風だった。
それは、現代と、ちがってコンリ一トがなくあるとしても木材しかなかったので極力地元にある資村を使っているためコンクリ一トのものがないことがわかった。教育資料館は、木造にかいだて屋根は、寄棟造り棧瓦葺き凹形で中央に吹き抜け式玄関が突き出し、その柱には、ギリシャ建築様式のアイニックオーダーを簡略化した柱頭で飾り教室の前面に吹き抜けの廊下を配した質素堅牢な造明治の

投稿者 koriyama : 10:12 | コメント (6)

No.414「明治9年には2人で1つの教科書を使っていた。」


■今の教科書について
今の教科書は、主に、ひらがなとカタカナと漢字で書かれている。
今はふつう1人で1つの教科書を使っている。
今は義務教育で、教科書で税金で払っている。
■明治9年の様子
就学率が高く、義務教育でなかったのに登米尋常小学校では、477人と県内最大だった。
小学校建設に多額の資金をかけた。
経済的に裕福な家庭が多かったと思われる。
■昔の教科書について
昔の教科書は、字が大きかった。
昔の教科書は、主に、漢字とカタカナと絵が書かれていた。
江戸時代の往来物の類やアメリカの翻訳書などが混用された。
明治9年に2人で1つの教科書を使っていたのは冊数不足とお金の問題だった
■教科書が、子供の数分なかったからだと思われる。
教科書を買うお金がなかったからだとも考えられる。
昔は2人で1つの教科書を使っていて不便だっただろうなぁ、と思った。

投稿者 koriyama : 10:12 | コメント (7)

No.412「教育資料館」


■木造二階建て、屋根は寄棟造り葺凹型中央の吹き抜け式玄関ある
その玄関の柱はギリシャ建築アイオニックオーダーを簡略化した柱頭で飾りである教室の前

投稿者 koriyama : 10:10 | コメント (6)

No.411「明治時代はノートがなくてミニ黒板をノートにしていた。」


■旧登米小学校について
小学校は、明治21年10月に造られた。
2階には、バルコニーがある。
洋風建築学校の代表。
女子より男子の方が人数が多い。
教科書は2人で一冊使っていた。
■実際に2階の再現教室に行ってみた
今とはぜんぜん違い、教室の物ほとんどが木でできていた。
明治時代にもオルガンがあった。
教科書はカタカナと漢字で書かれてた。
私服は着物だった。
■そのころは鉛筆もノートもなかった
明治時代は鉛筆もノートもなく、石板と言うものにメモをしていた。
鉛筆もなかったため、チョークのようなもので石板にメモをとっていた。
石板は、A4くらいの大きさだった。
■明治時代はノートも鉛筆もないすごい時代だった。
今とはぜんぜん違い、教科書も2人で1冊使っていた。
今はノートがあるからまた新しいページに書くことができるけど石板は新しいページがないからどのようにしていたんだろうと思いました。

投稿者 koriyama : 10:09 | コメント (6)

No.406「明治登米の学校建築は欧米の建築様式を取り入れている。」


■実際に教育資料館に行って調べてみた。
旧尋常小学校は現在教育資料館になっている。
洋風建築が盛んに発展し洋風小学校たくさん建てられていたから。
学校なのにバルコニーがある。
その登米の学校は重要文化財になっている。
確かに欧米の建築様式だった。
■実際の写真をご覧ください。
■どうやって取り入れたのか
登米の隣にある町の学校も洋風建築だった。
生徒の親も多額の資金を出したのでこのような立派な学校が建った。
とくに登米の住民は教育熱心だった。
■登米洋風学校は住民など人も協力した素晴らしい学校だった。
登米洋風小学校(尋常小学校)は明治21年に建てられた。
当時は余りお金もそれほど無かったため住民達に協力してもらった。
洋風建築になったのは当時設計者が欧米の建築様式を取り入れたから。
学校が建ったあと大勢の子供たちが入学した。

投稿者 koriyama : 10:01 | コメント (5)

No.403「477人中83人しか女子がいない学校がある」

■明治の登米小学校について
登米第一番小学校とは明治9年以降はじまった小学校である。
小学校になる前は水沢県庁舎として使われその後、治安裁判所や老人福祉センターとして使われました。
小学校の名前が明治9年5月「仮校舎養雲寺」になり、その年の11月「凌雲小学校」になり、明治12年1月に「登米小学校」となりその後も何回か名前が変わっていきました。
■生徒数について
当時の生徒数は477人で、男子394人、女子83人で、女子が大変少なかった。
477人の生徒数に比べ、教員の人数は7人でした。
参考として、宮城県の小学校では、教員2人・男子531人・女子95人・合計626人の学校もありました。
■義務教育について
義務教育ではなかった当時、生徒数は477人と県内最大だった。
なぜかというと、建設に多額の資金をかけたり、教育にかける熱意・意識が高い家庭が多かったので、県内最大になったと思われる。
当時の小学校ではおもに、読書・作文・習字・算術などの勉強をしていました。今と比べると大分ちがっている。
■女子が少なかった理由
女子がすくなかったのは、家事の手伝いのためでもあるが、学校に入るのにお金がかかるため、親に負担をかけさせないように学校に入らなかった。
しかし、83人と少なかった女子は、明治18年2月に「裁縫科」を設け、女子生徒は増加していったということである。

投稿者 koriyama : 09:55 | コメント (7)

No.402「明治9年から教科書が1人で一冊つかえるようになった」

■明治9年の登米の様子について調べてみた
登米の小学校は生徒数が県内最大だった。
当時はまだ義務教育ではなかったが、教育に対する熱意の高さや経済的に裕福な家庭が多かった。
■教科書を見ている様子
教育資料館に展示されていた写真を見ると、昭和57年はまだ1冊の教科書を2人見ていた。
明治9年の写真を見ると今のように1人で一冊つかっていた。
■教科書や当時の勉強の様子
教科書はほとんどがカタカナでかいてあり、カラーのページがなく、今とは厚さや、大きさが全然ちがっていた。
当時も教室にはオルガンがあったが、服装は着物だった。
机には勉強道具を入れるスペースがあった。
■明治9年から教科書が一人で使えるようになった
当時勉強していた科目は、習字、単語、会話、読本、文法、算術、物理、唱歌である。
明治8年までは教科書を2人で一冊つかっていた。

投稿者 koriyama : 09:52 | コメント (7)

No.401「昔の教室には、照明器具がなかった。」

■昔の教室を再現した写真を見てみた。
ほとんどが木造建築で、とてもシンプルなものだった。
机は、長くつながっていて、2人で1つ使っていた。
確かに照明らしきものは、見当たらない。
■実際の写真をご覧ください。
当時にしては、高価だったガラス窓を使っていた。
そのガラス窓から、太陽の光が差し込んでいた。
■どうやって勉強したのか。
とても薄暗い場所で勉強していが、写真を見ると、眼鏡をかけている人はいなかった。
なので、昔の人は、目が強かったのかなと思われる。
昔では高価だった。ガラス窓にした理由は、お金があるという理由だった。
太陽の光が入るようにという理由もあったのかなと思われる。
昔の子供は、太陽の光を頼りに、熱心に勉強していた。
■昔と言うのは、明治中期くらいのことである。
再現教室を見てみると、天井には照明らしきものはなかった。
曇っている日などは、相当大変だったと思われる。
昔の人はとても我慢強かった。

投稿者 koriyama : 09:51 | コメント (16)