2004年11月22日

No.531「山添喜三郎は業者に恨まれていた。」

■山添喜三郎とは
山添喜三郎は、1872年にオーストラリアのウィーンにわたった。
日本に「洋風の建築」を広めた人である。
すべての任務をおえたのは、1874年である。
仙台に来たのは、38歳ごろ。
■山添喜三郎はこんな事をした
旧登米高等尋常小学校校舎などを設計した。
今では、「国指定重要文化財」になっている。
ロンドンやイギリスにもわたった。
建築家・技師などの仕事もした。
■業者の恨み
あまりにも仕事に忠実で厳しかったため、業者に検査のために屋根に上がったところ、梯子をはずされた。(昼食になっても、夕方になっても降りてこられなかったと、おもわれる。)
梯子をはずされた以外にも、恨みを抱く業者から、川の中(堀の中)へ人力車もろともほうりこまれたこともある。
■偉大な山添喜三郎でも、恨まれていた
山添喜三郎さんはあまりに仕事に厳しすぎたため、恨まれたと思われる。
仕事に厳しすぎるのも、ほどほどにした方が良いと思う。

投稿者 koriyama : 14:12 | コメント (9)

No.523「山添喜三郎は県庁職員になったことがある。」

■山添喜三郎さんのプロフィール
1843年、新潟県に生まれる。
明治6年、日本で初めて万国博覧会(ウィーン)に参加した。
現在ある建造物は「旧登米高等尋常小学校」と「旧登米警察署」などである。
■県庁での役職とは
宮城県の建築主任。
明治18年、当時40歳で迎えられた。
■県庁職員に迎えられたきっかけ
明治16年、当時38歳で仙台に来る。
目的は仙台の三居沢に創設される紡績工場の工事監督として招かれた。
仙台の工事を通して、山添さんの手腕力量が高く評価されたからである。
■山添喜三郎さんは県庁職員までなっていた
山添さんは明治18年、当時40歳で県庁職員になった。
県庁での役職は建築主任だった。
迎えられたきかけは手腕力量が高く評価されたからであった。

投稿者 koriyama : 14:03 | コメント (3)

No.521「山添喜三郎の子孫は・・いる。」

■山添喜三郎とは・・・。
「登米高等尋常小学校校舎建築」と登米警察署庁舎」を建築した人。
他にも、色々と設計をしたが、いずれもすでに解体撤去されてしまっている。
オーストリアのウィーンに行き、日本のイメージを世界に広げた人でもある。
■今現在の子孫は・・・。
山添喜三郎の子孫はいる。
女性の方が、いるという。
2人の人が仙台にいる。
■世界にまで建築を担当した、山添喜三郎はスゴイ人だった
山添喜三郎は、会社の建築のため、38歳の頃に仙台に来た。
だが、42歳の頃に、小学校校舎の新築のため、登米村に行った。
宮城県の技手であった。
■山添喜三郎は、仙台とおおいに関係があった。
山添喜三郎は、1度仙台に来た。
子孫は仙台にいる。
このことから、仙台とまったく関係がない訳ではなかった。

投稿者 koriyama : 14:01 | コメント (9)

No.518「山添喜三郎のせいで、倒産した瓦屋がある。」

■山添喜三郎とは?
山添喜三郎は小学校を始め、茶屋・神楽殿・神土を建築した人。
新潟県浦原郡角海兵村出身。
そして、明治20年登米村を建築した。
山添喜三郎が設計した小学校の瓦は、今でも青みがあり、きっちり・きれいにはまっていた。
■瓦の作り方
屋根に使う瓦は、1枚1枚重さを測る。
これを一夜水に漬ける。
翌日、又重さを計って吸水量を調べる。
一定以上の量目の瓦は、すべて不合格とされた。
■なぜ倒産?
予想以上に手間ひまがかかった。
工場は家財を売り払っても、借財が残ってしまった。
工法になれていない大工の苦労も、並たいていではなかった。
■山添喜三郎は、生徒の事を1番に考えていた素晴らしい建築家だった。
山添喜三郎のせいで倒産した瓦屋はあった。
でも、生徒の安全を考えて建築した素晴らしい建築家だ。

投稿者 koriyama : 13:59 | コメント (5)

No.514「山添喜三郎は世界的にも有名だった。」

■山添喜三郎のプロフィール
建築家山添喜三郎は、天保十四年九月十五日に新潟県(西浦原郡角海兵村)に生まれた。
大工として建築を志し、腕も相当なものであった山添は、オーストリアのウイーンで開催された万国博覧会に政府からの主張を命じられ、ウイーンへ向かった。
そして会場に日本家屋を建築し、多くの外国人の目を見張らせるとともに日本の芸術文化を認識させた。
■山添喜三郎のその後
山添喜三郎は、日本だけではなく世界でも活躍していた事が分かった。
そして山添は同年にロンドンに渡っていた事も分かった。
そこでも茶店、神楽殿、神社、数奇屋風売店等を建て上げ、さらに土蔵も造っている事がわかった。
■代表的な建造物
すべての任務を終え、明治七年(一八七四年)三月十三日に、日本へ帰国する。
山添は、県内の多くの建築物を手がけたが、本町にも明治二十二年に完成した旧登米警察署の庁舎がある。
また近隣では佐沼小学校、飯野小学校なども彼の設計によるものだ。
■記念碑となったもの
しかし、いずれもすでに解体撤去されていてその面影もなく・・・
現存する建造物としては、本町の旧登米高等尋常小学校校舎と旧登米警察署庁舎だけで、
建築家山添喜三郎の記念碑ともいえるものなのである。

投稿者 koriyama : 13:55 | コメント (3)

No.1511「山添喜三郎が日本建築をヨーロッパに紹介したことがある。」

No.1511「山添喜三郎が日本建築をヨーロッパに紹介したことがある。」
■教育資料館の館長はこう語る
教育資料館は木造2階建である。
明治21年<1888年>2年半の歳月をかけて落成した。
昔の生徒達はいろいろな本をよんでいた。
■教育資料館のすごかったところは
明治の洋風学校を代表する学校だった。
明治の洋風学校を代表する建築物として昭和56年国博覧会に日本から派遣された。
山添喜三郎氏が日本建築を紹介した。
■その学校は
昭和54年新校舎の落成とともにその役割を終えました。
その後も高等学校、中学校の校舎改築時の仮校舎とされた。
昭和62年に大きな地震が起きて保存修理を行った。
平成元年に大正時代の授業を体感できる明治からの教科書を展示した教育資料館として一般に公開されている。
■山添喜三郎が日本建築をウイーン万博でヨーロッパに紹介したことがある。
山添喜三郎が日本建築をヨーロッパに紹介された。
平成元年の大正時代の時に再現教室や教科書を展示してある。

投稿者 koriyama : 13:52 | コメント (1)