2004年11月22日

No.534「昔の尋常小学校にはオルガンしかなかった。」

■尋常小学校とは?
明治21年10月に建てられた洋風学校代表の学校です。
校長室は、以外に狭かった。
特徴的な物は、2階の白いバルコニーです。
■学校の様子
音楽室は、机が多くオルガン以外、楽器がない。
なかなか丈夫でズッシリしていた。
鷹の剥製などが、ガラスケースの中にはいつていた。
校庭が、小さかった。
■音楽室の様子
狭いが、30人ほど入れる。
おそらく昔は、歌中心にやっていた。
着物を着た女性が、オルガンを弾いていた。
オルガンは、形がすこしごっかった。
■補足トリビア
昔の学校は、小さいが丈夫だった。
昔、ほとんど木材で、学校が構造されていた。

投稿者 koriyama : 14:15 | コメント (7)

No.532「教育資料館1階の教室にいた男の子が開いていた教科書の物語は・・さるかに合戦。」

■教育資料館と言えば登米高等尋常小学校として使われていたとこだが・・
近くにいたおばさんたちはこう語る。
おばさん2人組みが『あ~なつかし~コレさるかに合戦やね~』・・・
確かに言った・・。
■さるかに合戦はこうして見つかった
おばさんが「これさるかに合戦やね~」といった。
盗み聞きしてから、「そーなんですか~?」と聞いてみると。
「そ~だよ~」と言った・・・。
■昔の教科書はこうだった・・・。
昔はこういった昔ながらの物語が教科書に載っていたらしい・・・。
ちなみに他の子は、違う別のページを開いてました・・・。
■教科書には確かにさるかに合戦が載っていた!!
ページはP13でした。
他の教科書には、かちかち山などの、いろいろな昔話がのっていた。

投稿者 koriyama : 14:13 | コメント (8)

No.529「教育資料館は明治の頃の教科書などがあることで有名だが、昭和から平成にかけての教科書も展示されている。」

■そもそも教育資料館とはどんな所か
教育資料館は、明治21年に建てられた洋風学校建築を代表する建物である。
教育資料館は、当時使われた教室や教材などを展示しているところでもある。
■実際に見た人はこう語る
問題の教科書は、教育資料館一階の「再現教室」の向かい側にある部屋で展示されている地元の子供が描いた絵の裏の棚に置いてある。
■研修の前に教育資料館に行ったときの記憶
前、個人的に教育資料館に行ったときは、今回見たような絵は展示されていなく、かわりに昔使われていた黒板のようなノート等と一緒に平成前後の教科書が展示されていた。
そのときは、黒板のようなノートの他に、お手玉等も展示されていて、実際にノートに書けるようにチョ-ク・黒板消しも置かれていた。
■教育資料館には、さまざまな時代の教科書が展示してあった
昭和~平成の頃の教科書の中身は、今とほとんど内容が変わっていなかった。

投稿者 koriyama : 14:11 | コメント (6)

No. 527「旧登米高等尋常小学校の校章は宮城の初代領主に関係していた。」

■旧登米高等尋常小学校とは
開校日が明治6年6月18日。
当時の洋風学校建築で正面に向かってこの字型に造られている古い学校である。
六角形を半分に切った形の昇降口(六方)がある。
■旧登米高等尋常小学校の校章は
校章制定日が昭和27年7月21日。
由来登米の初代領主伊達家などの家紋の下地に登米の「登」を意味している。
伊達家の家紋は丸くて縦に3本の線がついた模様である。その家紋の上に「登」がついているのが旧登米高等尋常小学校の校章の形である。
■旧登米高等尋常小学校は今・・・
小学校としては使われてなく、「教育資料館」として使われている。
登米小学校は「教育資料館」の向かい側に建っている。
旧登米高等尋常小学校の校章は「教育資料館」の中に飾ってあった。
■旧登米高等尋常小学校の校章は初代領主の伊達家の家紋と関係していた
開校日が明治6年6月18日。
校章制定日が昭和27年7月21日。
校章の由来は、登米の初代領主伊達家などの家紋の下地に登米の「登」を意味している。
校章の由来は、宮城県のことに関係していた。

投稿者 koriyama : 14:08 | コメント (6)

No.524「教育資料館の再現教室でさるかに合戦を読んでいる子供の人形がある。」

■実際に見た人はこう語る
本の一説に「ハヤクミヲツケナイトハサミキル」と書いてあったため、蟹が言った台詞だと思われる。
他にもいろいろな本を読んでる生徒がいた。
■本の内容
ちなみに他の子供は違う本を読んでいたが、資料館なので他にもこんな内容があるということを、知ってもらうために違う本に変えたに違いない。
子供の服装もいろいろな種類があるため着せ替えたのだろう・・・。
■教室の様子
子供の様子は女の子が一人で本を立って読んでいた他に男の子が四人、座って読んでいた。
教室の後ろの方にストーブが置いてあった。
教室の前方にはオルガンが置いてあった。
この時代からすでにおいて置いてあった。
■再現教室の子供達はさるかに合戦の本から善悪の判断を学んでいた。
授業でこの本を読んだのは、子供達に善悪の判断を付けさせるためだったに違いない。
さるかに合戦の物語が明治時代からあったということが判明した。

投稿者 koriyama : 14:06 | コメント (6)

No.522「教育資料館は洋風と和風が入っている。」

■教育資料館とは・・・
明治21年に建てられた当時の洋風学校建築を代表する建物である。
当時の再現教室も展示してある。
とても懐かしい感じのするところである。
■館長さんはこう語る
洋風といえばれんがだが、この学校は、板造りでできている。
木造でできており屋根は瓦、板張りは和風となっている。
しかし、バルコニーなど和ではないものがあることから、洋風と和風が混ざっているといえる。
■洋風と和風を混ぜたわけ
洋風と和風を混ぜたのは棟梁の山添喜三郎がより快適な校舎にしようと考えたからである。
■教育資料館は洋風と和風が入っている素晴らしい学校だった
教育資料館は、より効果的に快適な構造にしようとした山添の素晴らしい作品だった。
山添は実際にヨーロッパやアメリカに渡り、洋風の構造を勉強した。
ちなみにバルコニーが校舎の中心にあるのは、校長先生が生徒を全員見れるようにするためである。

投稿者 koriyama : 14:02 | コメント (3)

No.520「教育資料館は、洋風と和風が入っている。」

■教育資料館とは・・・
教育資料館とは、明治時代に建てられた、洋風学校である。
1階の窓には霜よけがついていて、2階にはバルコニーがついている。
そして昇降口が2つある。
各教室には、当時の教科書などが展示されている。
■データによると・・・
洋風というと、れんが造りだが、この学校は木造である。
屋根は瓦であり、壁は板張りで、和風である。
しかし、一方では、洋風が入っている。例えばバルコニーや外景である。
このことから、洋風と和風が入っていることがわかる。
■洋風と和風を混ぜた理由は?
洋風と和風を混ぜた理由は棟梁の山添喜三郎が効率的に、効果的に、快適な校舎にしようと考えた。
そしてこのような校舎になった。
れんが造りが木造になった理由は、地元にある材料で造られたからである。
■教育資料館は、山添喜三郎がつくった作品だった。
教育資料館は、快適な構造を考えた山添喜三郎の和洋折衷の作品だった。
山添喜三郎は実際にヨーロッパやアメリカに行って構造の勉強をした。

投稿者 koriyama : 14:00 | コメント (2)

No. 519「登米町には洋風建築が多い。」

■今も残っている洋風建築
旧登米尋常小学校(教育資料館)明治21年建設
旧登米警察署
旧水沢県庁庁舎(水沢県庁記念館)明治5年建設
■洋風建築の特徴
外見が洋風でも中は和風という建物が多い。
吹き抜けのバルコニーやベランダ、ポーチに欄干などを取り入れている。
■なぜ洋風建築が多いのか
宮城県建築技手だった山添喜三郎氏の建築によるため。
山添喜三郎氏はヨーロッパを巡り洋風建築を勉強し、明治9年のアメリカ建国記念万博で出品しアメリカの建築を勉強した。
■確かに登米には昔の洋風建築が多かった
山添喜三郎氏は登米で洋風建築を多くたてたすごい人だった。建設されてから100年以上もたってもあるということはすごく頑丈に作られている。

投稿者 koriyama : 13:59 | コメント (2)

No.512「明治時代の登米小学校では生活に必要なことだけを学習していた。」

No.512「明治時代の登米小学校では生活に必要なことだけを学習していた。」
■明治時代に詳しい方はこう語る
登米小学校は、明治21年に建てられた。
登米小学校は、コ型の形をしてた昔ならでわの学校です。
昭和53年では、宮城沖地震があり、大きな損害を受けた。
■登米小学校の教科は
登米小学校の教科は、読書、作文、習字、算術の4教科である。
読書は、いろいろな学本を読んでいた。作文は、戦争などのことをかいていた。
■教科のことを気づいたきっかけは
実際に、登米にいって、教育資料館にいって見て来た。
教育資料館には、明治時代のいろいろなできごとが飾られていた。
そこには、教科のことが飾られてあり、調べたくなったから。
■生活に必要なことを学習していた
明治時代の小学校は、読書、作文、習字、算術の4教科だった。この4教科は、教育資料館にいけば分かる。
子供たちは、作文に戦争のことを書いていた。昔の教科では、国語的なことをかなりやっていた。今は、世界的なことをやっている。

投稿者 koriyama : 13:53 | コメント (1)

No.1509明治40年に義務年限が六か年となった。

■教育資料館の館長はこう語る。
今の小学校も義務教育年限が六年である。
教育資料館は明治21年に建てられた当時の洋風学校建築を代表する建物で明治以後の教史各時代の教科書なつかしい再現教室等を展示している。
■その資料によると
明治40年小学校の改正により義務教育年限を「六か年」となす。
登米高等小学校登米第二尋常小学校とを廃し登米第一尋常小学校に高等科を設置し校名を「登米尋常高等小学校」と改称する。
修業年限尋常科は六か年、高等科は二年となる。
■学生の人数はふえたのか。
新しく「登米尋常高等小学校」に改称された。
改称され学年も六か年となった。この年児童数は尋常科603人分教場108人高等科447人計1158人となった。
■登米町の人々
登米の小学校はとても勉強熱心な小学校だった。
そして平成元年に保存修復作業が行われたらしい。

投稿者 koriyama : 13:51 | コメント (3)

No.508「教育資料館の建築費は今のお金に換算すると8000万。」


■教育資料館に詳しい方はこう語る
教育資料館は明治21年(1888)年、2年半かかってできた建物である
1888年に建設された。
お年寄りの人は懐かしいといっていた。
■教育資料館を訪れる人の評判
大人の客は多いが小学生などの客は少ない。
中学生などは校外学習などで来ることが多い。
■お年寄りの客が多い
教育資料館の建築費は当時5874円
今のお金に直すと8000万だった。
当時のお金は5874円。
昭和62年に保存修理をした。
■昔では建築費は高かった
教育資料館の当時の値段では5874円は高いおっしゃていた。
「今の値段は8000万だと知ったときはびっくりしたとおっしゃていた」
お年寄りの人は懐かしいとおっしゃていた。

投稿者 koriyama : 13:50 | コメント (5)

No.503「旧登米小学校をコの字型にした理由は、校舎全体を伺い知ることができるから。」

■旧登米小学校とは・・・
明治21年10月に建てられ当時の洋風学校を代表する建物。
価値ある貴重な建造物。
平成元年に保存修復作業を行い建築当初の状態に復元してある。
■校舎の作り
純木造2階建て。
昔ながらの洋風建築。
コの字型に作られている。
■コの字型に建てた理由
コの字型だと校舎のいろいろな所から生徒の様子が見れるから。
実際に見てコの字型のどこからでも校舎全体が見えた。
■コの字型の何処からでも校舎全体が見えた。
校長先生は生徒の事を大切に思っていた。
校長室にはじゅうたんがしいてあって教室よりもちょっと狭かった。

投稿者 koriyama : 13:45 | コメント (6)