2004年11月22日

No.334「今の登米町は昔、登米県だった」

■登米県であった証
登米町は明治時代からの建物をそのまま残している町である。
別名「みやぎの明治村」としてみんなに親しまれている。
当時の登米県は現在の宮城県北部と岩手県南部を合わせた県を登米県とした。
登米県の次は胆沢県、一の関県、次が水沢県と称し、磐井県から宮城県になった。
■当時の水沢県庁舎
明治4年、水沢県庁舎が設置されることになった。
そしてその年の7月、上棟式が行われた。
翌年の明治5年、「水沢県庁舎」として落成。
明治8年までの4年間使用されていた。
■なぜ登米県になった?
明治元年戌辰戦争で政府軍に敗れた仙台藩は領地を没収された。
明治2年に仙台藩が分割された。
そして藩から返された地域は「県」とよばれた。
その中で現在の宮城県北部と岩手県南部を合わせた地域を「登米県」とした。
■登米町の歴史に残る「登米県」
「登米県」になったきっかけは戌辰戦争で敗れたためである。
建物は洋風の木造になっており、日本独自の貴重な洋風建築といえる。
平成元年に保存修理が始まった。
平成3年、宮城県登米町に「水沢県庁記念館」として一般に公開された。

投稿者 koriyama : 11:30 | コメント (6)

No.305「旧水沢県庁舎は小学校としても使われたことがある。」

No.305「旧水沢県庁舎は小学校としても使われたことがある。」
■旧水沢県庁舎について詳しい方はこう語る
水沢県庁記念館は明治4年に建てられた。
水沢県庁記念館は明治8年庁舎が一関に移されるまで使用された。
水沢県庁記念館は県内の官公所建築を代表する貴重な建物です。
平成2年に明治22年ころの姿に複元し、水沢県庁館として公開しています。
■水沢県庁館は建物にこだわった
水沢県庁館の玄関は堂々たる造りで、入母屋造りと言います。
破風は狐格子で純和風ですが付属棟は洋風平屋建です。
水沢県庁館は洋風の意匠の中に和風の手法をとり入れた、日本独自の和洋折衷建設といいます。
水沢県庁館は一部分しか復元しなかった。
■水沢県庁館は昔、色々なことに使用された
水沢県庁記念館は明治9以降まで小学校として使用された。
水沢県庁記念館は明治9年以降まで裁判所として使用された。
水沢県庁館は明治9年以降まで老人福祉センターとして使用された。
小学校、裁判所、老人福祉センターは明治9年以降まで使用された。
■水沢県庁は色々なことにこだわった
水沢県庁館は明治4年に建てられ
水沢県庁は小学校や裁判所等に使用された。
水沢県庁は建物のあらゆるとこにすごくこだわった。

投稿者 koriyama : 11:08 | コメント (15)