2004年11月22日

No.516「教育資料館のあるところの顔から、いちご・オレが出る。」

■教育資料館の館長さんはこう語る。
昔は、こんなものはなかったが、今は、ユニークなものをいろいろおいている。
2001年、「顔からいちご・オレ」を取り付ける。
■「顔からいちご・オレ」は、こうして出る。
まず、ボタンを押す。
そして、口が開く。
ランプが光り、そこには、「コップを置いてください。」と書いてあるので、コップをおく。
そして出る・・・・・・!!
■「顔からいちご・オレ」の評判は・・・。
「昔は、おもしろいと評判はよかったです。」
「ですが、今では気持ちわるがられて、誰も買ってくれない。」
「でも、子供は、「おもしろ~い」と言ってくれるが、その親が、「やめなさい」と言って結局買ってくれない。」
■教育資料館にある「顔からいちご・オレ」のいちご・オレが出る瞬間は、本当に気持ち悪かった。
この、「顔からいちご・オレ」は、2001年に取り付けられた。
ここの館長がユニークな物が欲しいと考えたところ取り付けられた。
おやからは、気持ち悪いとクレームが殺到した。
館長は、登米のことを考えるいい館長だった。

投稿者 koriyama : 13:57 | コメント (13)

No.333『登米町には昔、建物を寄付した「渡辺政人」いう人がいた。』

■そもそも教育資料館とは・・・
明治時代からの教科書や教材などが展示されている。
一般の人にも見られるようになっている。
木造二階建て!!
■登米町教育資料館の方はこう語る。
登米町教育資料館は昔は尋常小学校という学校だった。
「新しい校舎にしよう」という事になったが旧校舎を壊さずに新しい土地に建てた。
登米町の人々は土地があるため昔の建物を壊さずに他の土地に建てた。
土地が余っているため建物を壊す必要がないのだ。
■建物の再利用
登米町の人は土地をたくさん持っていた。
登米町の人はその土地に建物を壊して立て直さなくても土地がたくさんあるので他の地に立てた。
そのままの建物は登米町に寄付されて今も資料館などに使われている。
寄付してくださったのは「渡辺政人さん」
■確かに登米町には昔の建物を寄付してくださった『渡辺政人さん』という人がいた
確かに登米町には昔の建物がいっぱいあった。その建物を渡辺政人さんは寄付してくださった。
政人さんは登米町の名誉町民。
今、懐古館で『渡辺政人コレクション』をやっています。
政人は『まさと』じゃなくて『まさんど』。

投稿者 koriyama : 11:30 | コメント (6)

No.332「明治時代の小学校は洋風だった。」

■洋風の特徴、利点など
欧米の洋風建築様式が学校などに多く取り入れられた。
洋風建築の学校が盛んに造られた。
コの字型は校舎全体を伺い知る事が出来るようにするため。
今では明治中期の地方文化の結晶として価値のある建造物。
■資料館のバルコニーでは
朝会のような時、校長はシンボル的なバルコニーで話していた。
バルコニーは校舎全体の中心的な位置にある。
バルコニーはシンボル的な役割を果たしている。
バルコニーの後ろには校長室がある。
■資料館の造り
資料館の昇降口は六方と呼ぶ。
廊下は吹き抜けの廊下式となっている。
屋根は寄棟(よせむね)造り瓦葺きになっている。
一階の窓には霧よけの庇(ひさし)がついている。
■確かに昔の小学校は洋風だった
平成元年に保在修復作業を行った。
建築当初の状態を忠実に復元してある。
明治以後の教育史、各時代の教科書なども展示してある。
懐かしい再現教室なども展示してある。

投稿者 koriyama : 11:29 | コメント (6)

No.330「登米高等尋常小学校の生徒数は県内最大だった」


■教育資料館の人はこう語る
明治2年には生徒数が県内最大だった。
登米には合ぺいする町がなかった。
生徒数が1000人を超えることがたびたびあった。
登米高等尋常小学校は「登米高等小学校」と「登米尋常小学校」とがつながってこの名前になった。
■登米高等尋常小学校はこんな学校
登米高等尋常小学校の建設監督は山添喜三郎という人だった。
山添喜三郎はロンドンに建設の勉強をしに行った。
山添喜三郎はロンドンで洋風建築の技術を学んだ。
登米高等尋常小学校は洋風になっている。
■登米高等尋常小学校の特ちょう
バルコニーが真ん中にある。
校舎がコの字型になっている。
外見は洋風になっている。
中はたたみなどがあり、和風になっている。
県内最大だった登米高等尋常小学校は、今も残されている。
今は教育資料館になっている。
■県内最大だっただけあって、建物はすごく大きい。
当時の教科書や写真などが展示してある。
校長室や教室もある。

投稿者 koriyama : 11:28 | コメント (5)

No.329 「教育資料館の児童数は、県内最大だった。」

■登米に詳しい人は、こう語る
児童の親は、教育熱心だった。
そのため、義務教育では、なかったのに、県内最大の477人を記録した。
■最大になった理由
登米が、県内最大を記録した明治9年この時代には裕福な家族が多かった。
そのため、義務教育ではなかったのに県内最大の477人を記録した。
■たくさんの資金をかけた教育資料館の児童数は1000人を超えていた
教育資料館は明治31年には生徒数が1000人を超えていた。
町の予算を48%を教育に使ったのは登米だけだった。
■教育にかける熱意
多額の資金を教育。

投稿者 koriyama : 11:28 | コメント (4)

No. 325「教育資料館をつくるための資金はほとんど寄付されたものだった」

■教育資料館とはどういうとこか
もともとは旧登米尋常小学校だった
その小学校は明治21年に設立
建設予定地の関係で明治21年になった
かかった期間は506日だった
■資金を提供してくれた人たちは
生糸業、運送業、商業、実業家などの人達が資金を寄付してくれた
建設費は3500円をかけてつくられた
総事業費は5874円だった
つまり、昔の人達はお金もちだった
■登米の人達は勉強熱心!?
普通は税金で建物を建てていた
しかし旧登米尋常小学校をつくるための資金は寄付されたものだった
資金提供者たちは子供たちに勉強をさせてあげたいという気持ちが強かった
つまり、子供たち思いな人達が多かった
■みんなの協力のもとでつくられたすばらしい教育資料館だった
506日もかけてつくっていたなんて今では考えられないほどおそいと思った
昔の登米の人達は自分のお金をつかってまで学校を建てていてすごいと思った
洋風でおしゃれ感があった
実際より建物が大きいと思った

投稿者 koriyama : 11:24 | コメント (7)

No. 315「明治時代の登米の人は教育熱心だった。」

■教育資料館に詳しい方はこう語る
教育資料館は、明治21年10月に建てられた、当時の洋風学校建設を代表する建物です。
建設費などは、ほとんどが寄付によるものであった。
■校舎の特徴
特徴的なのが2階バルコニーで、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしています。
廊下は1階2階とも拭き抜けの片廊下式となっていて、1階の窓には霧よけの庇が付いているのも特徴的です。
■登米の人は教育熱心
小学校建設に多額の資金をかけていた。
義務教育でなかったのに児童数が477人と県内最大だった。
教育に町の予算の48%をかけていた。
■今の教育資料館
今の教育資料館は、平成元年に保存修復作業を行い、建築当初の状態に忠実に復元してあります。
昔ながらの洋風の雰囲気を漂わせる様式は明治中期の地方文化の結晶として価値ある貴重な、建造物と言えます。

投稿者 koriyama : 11:18 | コメント (5)

No.313「旧登米高等小学校のバルコニーは亜鉛の板がしきつめられている」

■バルコニーの役割
朝会の時に校長先生の話などをしていた。
風雪のふしょく防ぐためにしていた。
2階の中心に立っていて目立っていた。
バルコニーの色は白だった。
■教育資料館について
教科書が全ページが片仮名だった。
昔のストーブだった。
教室の中にゆかたがあった。
昔の机はあくようになっていた。
■バルコニーの造り
「コ」の字型につくられていた。
校長室のまえにつくられている。
高さ3mくらいのところにつくられている。
全面に5~6枚の亜鉛の板がしきつめられていた。
バルコニーにとって亜鉛の板は、必要だった。
■バルコニーは、シンボルになっている。
一番最初に、目がいってしまう。
バルコニーから下を見ると、けっこう怖い。
今の学校にない物が昔の学校にあるとはびっくりした。

投稿者 koriyama : 11:15 | コメント (3)

No.312「昔の小学校ではノートが使われていなかった」

■昔と今の小学校の違い
子供たちの服装も今とは違い、昔は浴衣などを着ていた。
休み時間も、もちろん今とは違う遊びでお手玉やおはじきだっだ。
まだ、当時は学校に行けない家庭もあった。
男子と女子の生徒では女子は少なかった。
■学校の教育
学校のなかでも、小学校が一番教育に力が入れられた。
科目は今よりも多くあった。
特に国語的な教科が多数あった。
そうなると、ノートも必要なはずであった。
■教科書の役目
教科書の大きさは今とだいたい同じ大きさだった。
カタカナで書かれていて字が大きくて、あまりびっしりと書かれていたわけではない。
教科書の上の方にメモをとれるスペースがあった。
そこに授業のポイント等を書いていた。
■昔のノートではなくミニ黒板が使われていた
字の練習の時などにはノートサイズの黒板を使っていた。
一人ひとりに配布されていた。
あらゆる教科に使われていた。
紙ばかりを使うとなると経済的にも問題が出るのでノートが使われなかった。

投稿者 koriyama : 11:14 | コメント (4)

No. 311「今と昔の教室はちがう」

■昔の机のつくり
昔の机は、机の板をあげると教科書などいれる場所がある。
昔の机、いすなどは全部木でできている。
机が長くて二人で一つつかっている。
昔は机の横にフックがついていなかった。
■昔の教室は木造
先生方がつかう教卓も木造。
オルガンも木造でつくられている。
建物やバルコニーも木造でできている。
昔は木造以外のものをつくる働きをしていなかった。
■教卓は・・・
いまとちがって教卓の高さが中学一年生ぐらいの机より少し高い。
教卓のはばが机と同じぐらい。
教卓の柱は木でつくられていた。
教卓のあたりに大きいそろばんがある。
昔の教室は今とちがって構造がちがう
■いすの大きさがきまっていない
教室に、ボールではなく竹とんぼや紙ふうせんなどがおいてあった。
今とちがってロッカーがない。
いすの大きさが小学一年生のよりも小さい。

投稿者 koriyama : 11:14 | コメント (16)

No.309「明治9年児童数が県最大だった。」

■明治9年の教育資料館
卒業者数を見ても教育にかける熱意、意識の強さが分かる。
経済的にも裕福な家庭が多かったと思われる。
■建物の造り
一階の窓には霜よけ庇があるが、2階には、本屋根があるため庇が無い。
当時、洋風小学校が盛んに建てられたことや、設計者が欧米の建設様式を入れて設計したことによってバルコニーや吹き抜け廊下や六角形を半分に切った形の昇降口など造りにこだわっていた。
バルコニーは校舎の中央にあるために、校舎のシンボルとなっている。
校舎の形は、校舎全体をうかがい知るためにコの字型にしてある。
■明治31年の教育資料館の様子
明治31年(1888年)の児童数も1000人を超えていた
明治時代の小学校では、読書、作文、習字、算術などの学習をしていた。登米の小、中学校が完全給食となったのは、昭和39年の1月からだった。
■明治9年の様子
登米の就学率が高く、義務教育ではなかったのに、児童数が、477人と県最大だったのは、

投稿者 koriyama : 11:12 | コメント (2)

No.307「教育資料館の教科書は全部寄付された物」

■明治9年の教育資料館の様子
登米の就学率がたかくて、義務教育じゃなく449人県最大の人数。
明治22年町の予算の48%を教育にかけていた。
明治8・9年に洋風小学校が盛んになった。
教育にかけられる熱意・意識の高さがわかるし、経済的に裕福な家庭が多かったと思われる。
■教育資料館の資料
教育資料館は明治21年に建てられた建物。
平成元年に保存修復作業を行っている。
明治以後の教育史、各時代の教科書も置いている。
懐かしい再現教室等も展示している。
■教育資料館の人に聞いた
とっても古い教科書で持っている人が少かった。
持っている人が少ないので集めるのが大変だった。
持っている人から譲ってもらった。
教育資料館に置いた。
■教育資料館の教科書はたくさんの人の善意によって寄付された物だった
音楽の教科書は折り込みが多かった。
表紙には人の絵が描かれていた。
カタカナで書かれていた。
古くて黄ばんでいて、セロハンテープで張られていた。

投稿者 koriyama : 11:11 | コメント (8)

No.304「教育資料館の建物には工夫がたくさんあった」

■教育資料館は旧登米高等尋常小学校だった
明治21年に建てられた。
当時は珍しい洋風学校。
多い時の生徒数は1000人もいた。
建物には木が多く使われていた。
■建物にある工夫
両端に六角形を半分に切った形の昇降口があった。
廊下は1階・2階とも吹き抜けで広く感じる。
屋根は寄せ棟造り、瓦葺だった。
正面に向かってコの字型。
■今の学校との違い
今はコンクリートがたくさん使われているが、この学校は木が多く使用された。(机・イス・各教室のドア)
校庭は砂利で遊べる位大きくなかった。
屋根は三角屋根で瓦が使われていた。
■たくさんの工夫があった教育資料館は特徴がある素晴らしい建物だった
吹き抜けで広く感じられる廊下。
正面を向いた白くて大きなバルコニー。
(コの字型に建てたのは、校舎全体を伺いしれたから。)
正面入り口にあるとても大きい門。

投稿者 koriyama : 11:07 | コメント (3)

No.302「教育資料館は洋風と和風だった。

■教育資料館とは
洋風文化とは、洋風建築のこととするが、100%山添氏の設計です。
現在と違って流通が発達していなかったので地元にある資材を使った。
■教育資料館の建物のついて
純木造の二階建てで正面に向かってコの字型につくられている。
両端には六角形を半分に切った形の昇降口がある。
廊下は1階、2階とも吹き抜け片廊下式となっている。
■教育資料館の特徴
特徴的なのが2階バルコニーで校舎全体の中心的な位置にあり
シンボル的な役割を果たしています。
1階の窓には霜よけの庇が付いているのも特徴的です。

投稿者 koriyama : 10:51 | コメント (6)

No.301「登米は義務教育なのに児童数が県内最大だった。」

■教育資料館について詳しい人はこう語る
教育資料館は明治21年に建てられた。
生徒は全員着物を着て授業をしてる。
教育資料館の明治の教科書は太い字で書かれている。
教育資料館は窓に庇が付いているのが特徴的だった。
■教育資料館とは
教育資料館は義務教育だったのに生徒数が447人いた。
机やイスは木造で作られていて机は長くなっている。
バルコニーは2階にあり教育資料館のシンボル。
■金は手動でやっていた。
教育資料館は教育に熱心だった
教育資料館は小学校建設に多額の資金をかけたりした。
教育資料館は明治22年に町の予算の48%を教育にかけたりした。
この時代のころは裕福な家庭が多かった。
教育資料館の先生は何にでも生徒に熱心に教えていた。
■教育資料館は義務教育でも明治31年には500人を超え1000人なっていた
教育資料館建設に多額の資金をかけたのは洋風にするための材料がなかったため建設に多額の資金をかけた。
教育資料館は明治31には生徒数が1000人超えていた。
教育資料館は忠実に洋風に復元してある。
町の予算を48%教育に使ったのは登米だけだった。

投稿者 koriyama : 09:23 | コメント (21)