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2004年11月24日

No.135「凹型の校舎は授業の様子を見るためにある。」

■教育資料館で調べてみた
教育資料館は登米町にある、国の重要文化財に指定されている。
明治21年に建てられた木造校舎である。
バルコニーや、六角形を半分に切った形の昇降口や1階と2階までの木がつながっていることなど特徴の多い校舎だった。
■凹型の校舎計画
凹の形の校舎は、旧登米高等尋常小学校を建てる前は、L字型にする計画だったが凹の形に変わった。
理由は凹の形の方が授業の様子や休み時間の様子など見やすいし、L字型も同じだが、直線の方がいろいろの場所に行きやすいから凹の形になった。
■旧登米高等尋常小学校を建てるための予算は・・・
建設費は3500円だった。(当時の値段で3500円。今の値段でいうと、45500000円。)総事業費、5874円。(当時の値段で5874円。今の値段で言うと6607962000円。)資金がほとんどで506日で建てられた。
昔の小学校よりも、旧登米高等尋常小学校はお金がかかった。
だが、1階と2階の木がつながっているのは、お金が足りなかったからだった。
■旧登米高等尋常小学校は凹型をはじめ、様々な工夫がしてある学校だった
1番目をひくのは、白くてギリシャ風のバルコニーだろう。
木の廊下は、(吹き抜け廊下)雨にぬれやすく、しかも腐りやすかったため、亜鉛版をしきつめていた。
バルコニーは1番雨にぬれやすかったため同じく亜鉛版がしきつめられていた。

投稿者 koriyama : 12:08 | コメント (13)

No.134「春蘭亭は武家屋敷だった。」

■春蘭亭は一般公開されている
春蘭亭はお店の名前である。
お店の由来は登米に自生する春蘭を加工したお茶を出したことからこの名が付いた。
■春蘭亭のメニュー抹茶、春蘭茶、コーヒー、甘酒、ソフトクリーム
春蘭亭のあゆみ
■春蘭亭は直屋形式である
登米の武家屋敷は別棟の「ひろま」と証する書院座敷を前面に配するのが一般形式。
鈴木氏は、この書院座敷に相当するものを別棟とにせず直接、主屋に取り込んだものが直屋形式である。
■春蘭亭は一般に公開している武家敷
春蘭亭が開かれていることで武家屋敷の様子を細部まで詳しく見ることができる。
武家屋敷なのに喫茶店である。
武家屋敷をみんなに見せようとする登米町の人の思いがあった。

投稿者 koriyama : 12:07 | コメント (13)

No.132「町のいろいろな所に玄昌石が落ちている」

■玄昌石が落ちている、また、使われている所
水沢県庁記念館の屋根に玄昌石が使われている。
教育記念館の近くの道にふつうの石といっしょに玄昌石が混ざっている。
ふつうの道にふつうの石のように玄昌石がおちている。
■和洋折衷の和と洋の部分とその理由
山添喜三郎は洋風建築の和の部分に玄昌石を使うことにこだわった玄昌石は和洋折衷の和の部分にかかわってくる。
水沢県庁記念館の「和」は玄昌石を使っている屋根、「洋」は、いすや机など。
■教育資料館の洋風建築
2階のバルコニーが校舎の中心で、シンボル的な役割をしている。また、バルコニーから全教室が見える。
教育資料館は山添喜三郎が建築しており、当時の洋風建築はあたりまえだった。
校舎をコの字型にした理由は、校舎全体を知るために、また、授業の始めと終わりを知らせる鐘にも近いから、コの字型にした。
■建造物を現存させるための建築方法の工夫
工夫1、木抗を地下深く打ち込む。
工夫2、その上に粘土、砂、砂利、石灰などを混ぜ合わせたものをつき固める。
工夫3、さらにその上に、稲井石という石を切石としてすえる。
工夫4、それに土台をのせている。

投稿者 koriyama : 12:05 | コメント (14)

No.131「昔は木製が多かった。」

■留置場の牢屋は木製。
今の牢屋は、鉄でできた物で昔の牢屋は木で作られた。
昔は、木で出来ていて時々、脱獄する者もいた。今は、鉄で出来ていて脱獄する者が少なくなっていった。
■小学校の机、椅子は木製。
旧登米高等尋常小学校の教室の中の机と椅子は、とても古くて100年以上も経っている。今では、木製と鉄で出来た机と椅子が出来ていて今もどこかの業社で作られている。
(宮城県沖地震)大地震のせいで崩壊寸前でいつ崩れてもおかしくない状態でした。復旧工事に何年か、かかってやっと復旧工事が終わった。
バルコニーも木製。
■警察資料館

投稿者 koriyama : 12:04 | コメント (12)

No.130「旧登米高等尋常小学校校舎の柱についているうずまきのようなものは、ふくろうを表している。」

■ふくろうはどこについているのか
旧登米高等尋常小学校の校舎の形はコの字だが、そのバルコニーの見える内側の縦に伸びる太い柱についている。
その太い柱は、1階と2階で1本、つまりつながっている。そのなかでも2階の柱の上のほうに2つ、左右についている。
■ふくろうには何の意味があるのか
当時、ふくろうには2つの意味があった。
1つは、ふくろう=不苦労=苦労をしない、という意味。
もう1つは、厄を寄せつけない、魔除けの意味がある。
■なぜうずまきの形になったのか
うずまきのようなものは、ふくろう自体を表しているのではない。
ふくろうの目を表している。
■ふくろうは学校の守り神だった
ふくろう()

投稿者 koriyama : 12:03 | コメント (11)

No.129「登米高等尋常小学校は廊下で朝会をしていた」

■登米高等尋常小学校に詳しい人はこう語る
登米高等尋常小学校は明治21年10月に建てられた、当時の洋風学校建築を代表する建物である。
廊下は1階2階とも吹き抜けの片廊下式となっている。
■片廊下式の廊下とバルコニーの役割
教室の前面に吹き抜きの廊下を配した質素堅牢な造り。
バルコニ-は、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしている。
■登米高等尋常小学校ではこうして朝会をした
雨が降っている時生徒は廊下に並び校長はバルコニーにそして朝会をした・・・!
■登米高等尋常小学校は廊下で朝会ができるすごい学校だった
登米高等尋常小学校は雨が降っても朝会が出来た。
ちなみに、廊下で朝会の出来る学校は他にまず無いだろう。
それは、校舎がコの字型で、バルコニーがあるから。

投稿者 koriyama : 12:02 | コメント (11)

No.128「尋常小学校は洋風にした方がいいと思った所は洋風にした。」

■建築に詳しい人はこう語る
尋常小学校は外見を洋風にしたため、その頃にとってはめずらしかったため、昭和56年に、重要文化財に指定された。
基本は和風。
■洋風にこだわった訳ではない。
和風より洋風の方がいいと思った所は洋風にした。
■洋風にした所は?
バルコニ-を支えている柱で、どこが洋風かというと、洋風の柱はふつうは丸いがバルコニーの柱は和風で四角い、だがその柱には、みぞが3本彫ってある、みぞが彫ってあるのは洋風。
洋風、和風にこだわったのではなく、洋風と和風を組み合わせてつくった所もあった。
■尋常小学校は本当に洋風建築なのか
尋常小学校は、洋風建築に見えるがそれは、外見だけである。
内部構造は伝統的ながっちりした和風でつくられている。
こういった構造は「擬洋風」という。
尋常小学校は洋風にした方がいいと思った所は洋風にした。
尋常小学校は、洋風は外見でおしゃれ。
内部構造は頑丈じゃないといけないので和風。
尋常小学校は洋風にした方がいいと思った所は洋風にした、すごい学校。

投稿者 koriyama : 12:01 | コメント (8)

No.127「尋常小学校宮城県沖地震の為修復工事を行った。」

■もともとの作り
もともとの作りは、とても丈夫だった。
木造2階建ての普通の小学校である。
木材にも手がこっていて質の良い木を使用していた。
■宮城県沖地震の被害!!
尋常小学校は、明治21年10月に建てられた木造2階建ての小学校である。
そんな尋常小学校が出来てから、71年後に悲劇が起きる。
71年後と言えば、昭和53年宮城県沖地震が起きた年です。
この宮城県沖地震は、宮城県で最も大きい地震でした。
尋常小学校は、この宮城県沖地震で、すごい被害を受けるが、崩壊まではいかなかった。
■崩壊にならなかった理由?
尋常小学校を作る材料は、ほとんどが木材だった。
そんな尋常小学校を支えていたのが大黒柱だった。
大工さんもベテランぞろいでより良い作りが出来たから、地震にも負けない作りが出来たのだった。
■残そうとした町の努力
尋常小学校は、なぜ2億3962万円を出してまで修復工事をおこなったのか、それは登米町のシンボルだからである。
だから、2億3962万円を出して尋常小学校を修復したのである。

投稿者 koriyama : 11:59 | コメント (13)

No.126「明治時代の登米の就学率は99%であった。」

■尋常小学校は、年々就学率が増えた。
1クラスの人数は30人~40人だった。
大正~昭和初期にかけての日本全国の就学率は50%だった。
大正~昭和初期にかけての尋常小学校の就学率は99%だった。
■授業料は50銭
尋常小学校の1ヶ月の授業料は50銭だった。
5人家族の1ヶ月に食べる米代は約1円ほどだった。
旧登米小学校の明治21年に5874円で建て
られた。今の金額にすると、79498716円になる。
当時の1000円とは、今の13000000円である。
■教室での生活
尋常小学校には、電気がなかった。
窓を大きくして太陽の光で明るくなった教室で学習していた。
真冬には角火鉢をたいて寒さからのがれていた。
子供たちはゆかたを着て生活していた。
教室には、オルガンがあった。
■明治の教育
戦時下には子供が減少したり、教科書のページや科目が減ったりした。
■その後日本では義務教育がはじまった。
明治の登米は就学率が99%を超えた、教育に熱心なとても豊かな町であった。

投稿者 koriyama : 11:58 | コメント (11)

No.125「設計者が厳しすぎて、大工が夜逃げした小学校がある。」

■山添のこだわり
山添は、外見だけでなく中身や機能性も考えている。
材料も選びに選びを重ねた物だけを、使っている。
海外で学んだことが十分に生かされている。
当時の「擬洋風」から、「洋風」へと換えていった。
■山添のこだわりは、どこに生かされているのか?
バルコニーや、ガラスの周りの模様はとてもきれいで、目を奪われた。
天井が高く、警察署内がとても大きく感じられた。
とても考えられた造りで、警察署としての機能性もある。
だが、中の階段が急で上りずらかった。
■職人・業者の苦労
山添は瓦を、一枚一枚重さや、吸水量を調べた。
木材は、検査が厳重で多くのハネが出た。
山添の建築に携わった業者は、つぎつぎにつぶれていった。
大工は洋風建築の工法になれていない上に、山添から無理な要求をうけた。家財をはたいて建築をしたあげく、ついには夜逃げした。
■山添のこだわりが「登米」を残している
登米が一番栄えた時代を支え、今に残したのは山添だ。
山添が造った物が今でも残っていて、重要文化財になっていることから言えるだろう。
警察資料館や、教育資料館は、修復工事などはしたが、昔のまま残っている。
当時は、わがままと思われていた、山添のこだわりが登米の歴史を守っている。

投稿者 koriyama : 11:57 | コメント (11)

No.124「旧登米尋常の凹の字型は学校らしさをだすためだった。」


■旧登米尋常小学校の特徴(現在は教育資料館になっている)
昇降口は、六角形半(三角形を三つにしたもの)になっている。
凹の字型の校舎。
上から下まで一本の柱でできていた。
■凹の字型の前の設計
建築者山添喜三郎はL字型にする予定だった。
でも山添喜三郎結局は凹の字型のした。
凹の字型の小学校には先生にも生徒にも凹の字型のほうが良い面が多いから建築者たちはそう決めた。
それは学校という建物の実用性を考えられてる。
■凹の字型のとりえ
凹の字型なので生徒がどこにいるかがすぐ分かる。
凹の字型なので直線が多くなるのでトイレに行きやすくなっている。
L字型より凹の字型のほうが学校らしさがよくでるから。
■旧登米尋常小学校の凹の字型は学校らしさをだすためだった
凹の字型は設計者や教師やいろいろな人が生徒のために考えた優しさであった。
そして教師には監視手助けする考えである、優しいだけでなく、生徒へのきびしさもかたちにでているものである。

投稿者 koriyama : 11:56 | コメント (12)

No.123「登米伊達家の収入は、10万石」

■登米伊達家の収入に詳しい方は、こう語る
北上川から船ではこばれ、今の岩手県から登米にはこばれた。
蔵造り商店街で集められたのだ。
その数量を数えてみると2万1千石で明治時代になった。
だけど2万1千石だったのだが本当は、10万石以上あった。
■堤防の工事から良質な米が作られた
北上川は氾濫がおおかった。
家臣に野谷地を与えて新田開発をさせた。
こうした努力の結果、仙台藩でも有数の地となったのだ
■登米伊達家の収入が多かったのは初めからではない
工事をする前は、氾濫が多くてひどかった。
約6.7kmの堤防を築いたのだ。
工事をする前は、米が作れなかった。
工事をしたあと、米が作れるようになって新田開発をさせた。
■登米伊達家の収入は10万石もあった
最初に聞いたのは、2万1千石だと言っていた。
だけど登米懐古館で聞いてみたら、10万石以上あった。
その話を聞いたら、最初はびっくりした。
人々は、米を作って苦労したから、10万石以上の米を作ったのだと感心した。

投稿者 koriyama : 11:55 | コメント (9)

No.122「明治時代の洋風の建物がある」

■旧登米尋常小学校と旧登米警察署について
旧登米尋常小学校は、明治21年10月に建てられた、当時の洋風学校建築を代表する建物。
特徴的なのが二階バルコニーで、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしている。
旧警察署は、明治22年に建てられ、昭和43年まで登米警察署として使われた建物。
旧警察署は、建てられてから警察員と消防士が何回も階段を上り下りしていた為、階段がすり減っていて急になってしまった。
■山添喜三郎について
山添喜三郎とは、1843年新潟生まれの優れた洋風建築家。
山添喜三郎は新しい事が好きで、洋風建築は当時の新建築だったから。
山添喜三郎は仕事に極めて忠実でその結果仕事に対しては、ずいぶんと厳しかったようで、今でも次のようなエピソードが語りつがれている。一つ目は、洋風建築の工事の厳しさから山添に恨みを抱く者がおり、検査のため屋根に上ったところ、梯子をはずされて昼食になっても、夕食になっても下におりられなくされたこともあったと言う。
■山添喜三郎は、こうして洋風建築を伝えた。
1872年、オーストリアのウェーンで行われた万国博覧会で優秀な成績を残したから。
山添喜三郎は、日本独自の和風建築だけでは物足りなくて、和風建築の良さと、洋風建築の良さをミックスして擬洋風建築を伝えた。
擬洋風建築とは、構造は洋風のしっかり物で外観が洋風であること。
■尋常小学校は、現存する唯一の洋風建築の小学校だった。
宮城県内で尋常小学校は一つしかなかった。
尋常小学校の門は赤門の洋風建築だったが屋根は、和風建築だった。

投稿者 koriyama : 11:52 | コメント (10)

No.121「登米では人や車はあまり通らない。」

■登米の人口は6000人
登米の人口は6000人でかなり人が少ない。
だが、明治村と呼ばれるだけあって、明治時代に建てられた洋風建築も多く、立派な店蔵が建ち並ぶ。
■昔は栄えていた
川岸には石巻に向かうひらた船が停泊し、積み荷や米のほか、登米で醸造した味噌や醤油が多く、養蚕も盛んで、繭や繭糸が積み出された。
川沿いには船で働く人たちを相手にする旅館や料理屋が軒を連ねた。
■小学校の建設
この建物を造ったのは建築家・山添喜三郎によって
学校を建てるためにかかった費用は、建設費が3,500円、敷地造成費等を含めた総事業費5,874円、期間506日。
資金はほとんど寄付によるもので生糸業・運送業・醸造業・商業・実業家であった。

投稿者 koriyama : 11:50 | コメント (12)

No.120「木の廊下と亜鉛版のバルコニーがある小学校がある」

■登米町の教育資料館を詳しく調べてみた
旧尋常小学校は登米で一番古い小学校である。
現代は教育資料館として使われている。
その校舎の中でシンボル的な役割を果たしている二階のバルコニー
バルコニーは亜鉛版がしきつめられている。
■木の廊下詳しく調べてみた
廊下は吹き抜け廊下なっている。
その吹き抜け廊下は、雨にぬれやすくとても腐りやすく亜鉛版をしきつめることにより腐食をふせいだ。
廊下は、亜鉛版により腐食を守った。
■バルコニーに亜鉛版
バルコニーは一番雨のあたるところにある。
亜鉛版は腐食をおさえる力がある。
バルコニーは一番雨にあたりやすい所にあり腐食がおこりやすく亜鉛版によって腐食をふせいだ。
バルコニーは亜鉛版によって腐食から守った。
■旧尋常小学校は木の廊下と亜鉛版がしきつめてあるすごい小学校である
旧尋常小学校は木の廊下全面に亜鉛版をしきつめ、少しでも腐らないようにした。
昔の小学校は頭の知恵をうまくつかい、バルコニーを腐食から守ったすごい小学校なのだ。

投稿者 koriyama : 11:50 | コメント (15)

No.119「登米警察署には昔の名前がある」

■登米警察資料館の受付の人に聞いてみた
登米警察署は昔、金成警察署登米分署「とめぶんしょ」と言う名前だった。
すごい優秀な人がたくさんいる。
つまりチームワークのよい警察署だった。
警察資料館にある資料から上にある出来事が分かった。
■登米分署の活躍と登米警察署
さらに警察資料館の資料から次の事が分かった。
犯人を捕まえるなど事件を解決して数年で昇格した。
功績を挙げて警察官や警察署が出世した。
登米警察署「とよまけいさつしょ」と改めた。
■登米警察署の活躍と周囲の反応
警察署を見た人は洋風建築なのを見ておどろいた。
警察官の剣道大会や柔道大会で何度も優勝していて優勝旗がいくつもあった。
登米警察署は事件以外でも強かった。
剣道や柔道の大会の優勝旗は資料館の署長室にあった。
■登米警察署と登米の人たち
明治初期に登米警察署になる。
明治21年に登米警察署になる。
洋風建築の警察署を見て最初は驚いていたらしい。
今は資料館となっているが、資料館になるは、造った山添喜三郎、洋風建築に挑んだ大工、現存させようとした人いろんな人の努力があった。

投稿者 koriyama : 11:49 | コメント (11)

No.118「教育資料館は、私の父の会社が復元した。」

■父の会社について調べてみた
父の会社の名前は、安藤建設という。
安藤建設の本社は、東京にあり、創立約130年を迎える。
なぜ安藤建設が教育資料館の復元を担当したかというと、会社の社員の中に文化財を専門に復元工事している人がいたから。
■復元工事はこうしてやった
まず設計図を書いて、合番(数字)を書く。
次に写真を撮って、順番どうりに解体する。
解体したら、基礎を作る。
次は解体した時の順番と逆の順番から組み立てて、完成。
■尋常小学校のひみつ
当時、ふくろうは、厄をよせつけない魔除けの意味があった。ふくろう=不苦労=苦労をしない、という意味があった。
ちなみに太い柱についている、渦巻は、ふくろうの目だったらしい。
尋常小学校は、木造2階建ての和洋建築で、国の指定重要文化財。
■教育資料館は、父の会社で復元した。

投稿者 koriyama : 11:48 | コメント (10)

No.117「明治に建てられた小学校は地震に強い」

■地震との勝負
前から数々の地震と戦い勝っていた・・・。
しかし、ダメージも受けていた。
昭和53年宮城沖地震が起きたしかし負けなかった。
数々の地震に宮城沖地震が起き、小学校はかなり弱っていた。
■保存修理事業の始まり
かなりダメージを受けていた小学校を保存工事することになった。
1つ1つのパーツは高かった。
総工費はなんと2億3962万円という聞いただけではピンとこない額だった。
これほど山添氏や登米の人は小学校を大切に思っている。
昭和62年10月から保存修理工事をはじめた。
■教育資料館はとても高価
教育資料館(旧登米高等尋常小学校)は洋風建築の技術を収得した山添氏が建てた。
屋根、バルコニー、玄関、などのパーツ1つ1つにこだわりとてもすばらしい建物になった。
明治21(1888)年に2年の歳月をかけて完成した。
昭和56年に国の重要文化財に指定された。
■地震に強い「教育資料館」誕生!!
昭和62年10月からの保存修理工事が終った。
平成元年「教育資料館」が誕生しました。
大正時代の授業を体験できたり、明治時代からの教科書を見学できる建物として一般公開されている。
教育資料館を保存修理工事することで、もともと地震に強かった教育資料館をさらに地震から強くし、どんな地震からも負けない資料館になった!!!

投稿者 koriyama : 11:47 | コメント (13)

No.116「教育資料館には特徴的なものが多い

■現教育資料館になるまで
旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)は山添喜三郎氏により建てられたもので、明治の洋風学校を代表する建築物として昭和56年に重要文化財にも指定されて昭和54年役割を終えた後も教育資料館となって活躍し続けていた。
■建築費用の使われ方
教育資料館のシンボルはコの字型の校舎の中心にある洋風のバルコニーでいろいろな特徴のある教育資料館のなかでも、いちばんめだっていた。
■教育資料館の特徴の数々
アイオニックオーダーを簡略化した
柱頭で飾ったり、六角形がたにしている、他にもいろいろ特徴があるので重要文化財になるのも納得だった。
■教育資料館はすごい建築物だった。
教育資料館は、洋風のバルコニーやアイオニックーオダーなどを取り入れたりや校舎の形をコの字型にしたりといろいろな工夫が施されていた。
1888年に2年の歳月をかけ落成その後昭和56年に重要文化財に指定された。昭和62年に保存修理を行い平成元年に教育資料館となりました。

投稿者 koriyama : 11:46 | コメント (10)

No.115「旧登米高等尋常小学校の窓ガラスは、電気の代わりだった。」

■教育について詳しい方に聞いてみた
当時(明治中期)は、今のように電気がなかった。そのため、窓を大きくしてガラスを代わりに使った。
ガラスは電気の代わりになり、教室は明るくなった。
ガラスは少しゆがんでおり、光が直進しすぎてまぶしくならないように工夫されていた。
■当時の建設費について
旧登米高等尋常小学校の総事業費は、5’874円で現在のおよそ7‘9,498’716円にあたる。ちなみに当時の1000円は、現在のおよそ1’300万円にあたる。
旧登米高等尋常小学校の総事業費は、一般の小学校の10倍もの金額がかかった。ちなみに一般の小学校の総事業費は、7672200円。
■なぜ10倍もの金額がかかったのか
それは、建築家〝山添喜三郎〟がどの建築材も自分のこだわったものしか使わなかったため。
山添喜三郎とは、1843年新潟県生まれの優れた洋風建築家。
山添喜三郎は仕事には極めて忠実で、その結果、工事に対してはずいぶんと厳しかったようで今でも数々のエピソードが語り伝えられている。
建築材料である木材は検査が厳重でハネ材が多く出され、そのため木材供給業者は家産をかたむけた。
工事の厳しさから山添に恨みを抱く者がおり、検査のため屋根に上ったところ、梯子をはずされて昼食になっても夕方になっても下に降りられなくされたこともあった。
■旧登米高等尋常小学校の窓ガラスは電気の代わりをし、教室を明るくした
人に恨まれながらも良い授業環境をつくり、〝子供たちが豊かに育つように〟とこんなにもお金をかけて登米尋常小学校を建てた、山添喜三郎。
今も昔も大人が子供に、〝豊かに育ってほしい〟〝誠実な人になってほしい〟という思いはいつになっても変わらなかった。

投稿者 koriyama : 11:46 | コメント (5)

No.114「旧登米高等尋常小学校の一ヶ月の授業料は50銭だった」

■当時の50銭の価値は
校舎の建設費は3500円。
当時の5人家族の一ヶ月の米代は1円。
当時の1000円は現在の13000000円。
一ヶ月50銭の出費は、決して楽ではなかった。
■旧登米高等尋常小学校の教育
当時は小学校は義務教育ではなかった。
当時は給食はまだなかった。
読書、算術、作文、習字などを勉強していた。
■旧登米高等尋常小学校の建設と発展
明治21年(1888年)、山添喜三郎によって建設された。
木造2階建ての和洋建築で、国指定重要文化財である。
当時は就学率はとても高く、小学校が義務教育ではなかった明治9年には生徒数は477人を数え、県内最大であった。
資金はほとんど生糸業、運送業、醸造業、商業、実業家などの寄付によるものだった。
■旧登米高等尋常小学校の教育は、登米の町と家庭で支えられていた
旧登米高等尋常小学校は、登米の豊かな経済を背景に生まれた。
明治20年は町の予算の48%を教育にかけた。
親が子供を思う気持ちは、今も昔も変わっていなかった。

投稿者 koriyama : 11:45 | コメント (12)

No.113「警察資料館のバルコニーは繁華街の監視のため作られた。」

■明治の登米の様子となぜ監視が必要だったのか
明治時代の登米は、舟運が盛んだった事により、にぎわいは相当なものだった。
そのときの登米は石巻よりも発展するだろうといわれていた。
監視が必要だったのは、登米の町が相当なにぎわいだったために人の往来も増えたため常に監視しておく必要があった。
■バルコニーからはいろいろ見える
バルコニーから見えるものは商店街、土手、広い道路などが見える
旧登米警察署のバルコニーは商店街の町並みなどの様子を見ることが出来た。
このようなことから、バルコニーは広い範囲を見ることが出来た。
■警察資料館の洋風建築とバルコニーはどの様なものか
バルコニーは見た目が良い。
警察資料館は見た目がとてもきれいだった。
警察資料館は見ただけでも、洋風建築と分かるような洋風建築であるが、利用価値もあった。
■旧登米警察署のバルコニーは繁華街の監視のためつくられた
昔の登米は、監視をしなければならないほどにぎわった街だった。
明治時代の登米はにぎやかな町だったが、今は、人影があまりない。明治の面影を残している。
今は、観光に来ている人もいる。だが、本当に明治時代の登米は活気があったのかと思うような街だった。

投稿者 koriyama : 11:43 | コメント (17)

No.112「教育資料館の柱は、上から下まで1本だった。」

■実際に見てみた
教育資料館は旧登米尋常小学校である。
教育資料館の柱は、1階・2階の床を突き通して、どこも1本でつながっていた。
■教育資料館は建築以来壊れていない
明治21年10月に登米尋常小学校として建築された以来、大きな災害にも全く壊れていない。
平成元年に保存修復作業を行ったが、大きく壊れた部分はない。
■登米尋常小学校の建築方法は頑丈だった
建築以来壊れなかったのは、粘土・砂・砂利・石灰などを混ぜ合わせたものをつき固め、それに土台をのせるという極めて頑丈な造りだったから。
登米尋常小学校を建設した山添喜三郎は、使う瓦の一定の量目以上のものは全部捨てた。
建築材料の木材も、検査が厳重で捨てる木材が多かった。
■教育資料館の柱は、土台造りに手間をかけて災害から守っていた
総工費2億3962万円もかけて造った350坪もある教育資料館は、いろいろな工夫といろいろな人の汗と涙、お金によって現存している。
教育資料館は、土台を堅固なものとし柱を上から下まで1本にすることによって、災害から守ることができるのである。

投稿者 koriyama : 11:42 | コメント (12)

No.1110「 明治時代の留置場のトイレは穴が開いてるだけだった。」

■なぜトイレを穴だけにしたのか
床の木造に穴を開けるだけの簡単な作業で造れたから。
また罪を犯した人のトイレなんて穴だけで十分だと考えられていた。
■穴が開いてるだけの狭い場所で、何人も入れさせられていた。
昼でも薄暗く、夜には真っ暗で何も見えない場所だった。
夏は暑く、冬は寒くて、とても厳しい場所だった。
幅は狭いが高さは結構広かった。
■警察署内の造りと工夫
見た目は小さいが、中は以外と広い。
留置場は2つしかなかった。
2階にはバルコニーがある。町が栄えていた登米には人の往来も増えていた。そのため街を監視する必要があった。
2階建てだった。
■旧登米警察署の留置場のトイレは穴が開いてるだけだった
トイレは角にあった。
穴だけのトイレはやりにくそうだった。
今はトイレを使用していないのに、消臭力が置かれていた。
穴と地面の距離が短いので臭いそうだった。

投稿者 koriyama : 11:41 | コメント (12)

No.109「旧高等尋常小学校は一種類の木で造られている。」

■通常より多い、予算と日数
宮城県登米町に旧登米尋常高等小学校の校舎が保存されている。
旧高等尋常小学校は建設費が当時の小学校より、10倍ほどお金がかかった。
506日間(2年半)かけてつくりあげた。
■建築にこだわった結果
柱などの建築にこだわりお金がかかり、木材などにお金がかけられなかった。そのため、廊下の木は一種類の木でつくられている。
それでも建築費、3500円。総事業費、5874円。
今の金額にすると、建築費4550万、総事業費66億7百96万2000万であった。
■木材にお金がかけられない
本当は、数種類の木をつかったほうが丈夫にできるが旧高等尋常小学校はそれができなかった。
旧高等尋常小学校は、廊下に180本の松の木をつかった。
■旧登米尋常高等小学校は、宮城県の、大地震に何度も耐えた
それは、建築技術や1本の柱にしたこだわりがあるからだ。
山添は材料にこだわれなかった分、建築方法にこだわり、耐久性を高めた。
デザイン、耐久性にすぐれたすばらしい、すごい建物である。

投稿者 koriyama : 11:41 | コメント (12)

No.108「明治時代の留置場は木造建築だった。」

■なぜ留置場を木造建築にしたのか
留置場が木の格子だった。
壁も木だった。
昔は建物を造るのにほとんど木をつかっていたから。
■留置場の中は
留置場の中は、昼でも薄暗く夜は真っ暗だった。
中にはトイレがあるがそのトイレは床に穴が開いてるだけだった。また中は狭く角の方には消臭力が置いてあった。
■外は洋風、中身は和風と洋風
和室もあったが狭かった。
二階は洋風になっていて広かった。
取調室には段差がついていた。
■当時の容疑者はつらかった
外観は立派、中も木造で、今から見るとあたたかみのある木造。
実際は、留置場はせまく、トイレは穴、上から見下ろされて

投稿者 koriyama : 11:40 | コメント (10)

No.107「明治時代に作られた登米町」

■登米高等小学校の1クラスの人数と何クラスあるか
1クラスの人数は現在と同じ34人~36人となっていた。
何クラスあるかは、現在と同じ4組となっている。
旧登米高等小学校の窓は正方形になっている。
家から小学校までの通い道は、船で通っていた。
■明治時代の教科書について調べた事
明治時代の教科書は縦と横しかなかったのである。
明治時代の音楽の教科書は音符は現在と同じく書いてあっても、歌詞は現在と同じではなく歌詞が書いてあった。
現在の教育資料館で、展示されていたのは、理科と、国語と、算数と、音楽だけの四点セット、だけが、展示されていた。
学年ごとに教科書の本数は、全然違う。一年生は二冊で二年生は、三冊で、三年生は、四冊、四年生は、五冊で五年生も五冊で六年生は、六冊である。
■旧登米高等尋常小学校は主に何を使っているのか
旧登米高等尋常小学校は、何を主に使って、いるのかというと窓のさくは、木で一枚の窓をかこっている。廊下は、丈夫な木で作られている。ドアも木製で出来ている。
チャイムは、昔からあった、鐘で鳴らしている。その鐘は学校中に広がり、鐘の音がよく聞こえるという良い感想を、言ってくれることがうれしかったということが聞かれた。
■明治時代に作られた登米の今
今は登米町に、いろいろな資料館

投稿者 koriyama : 11:39 | コメント (6)

No.106「明治時代の登米は、教育に熱心な町だった。」

■明治時代の登米町は教育に、多くの支援をしていた
明治時代の登米町は、町の予算の48%を、教育にかけていた年があった。
当時、登米町は北上川を通して物流の拠点だったので、流行の先端にあった。
流行の先端だったことが良く分かるのが、当時の小学校(今の教育資料館)である。
■教育の拠点だった小学校のつくりも、工夫されていた
この小学校は、山添喜三郎という人によってつくられた。バルコニーや吹き抜けの廊下など、洋風的なものを取り入れつつ、屋根を瓦葺き造りにしたり、畳の部屋があるなど和風も取り入れてつくられていた。
そんな小学校の建設には、約8000万のお金がかかった。
■裕福な家庭が多かった
小学校の1ヶ月あたりの授業料は、50銭
当時、1円で家族5人分の1か月分のお米が買える時代だった。
そんな時代だったのに、就学率が99%の時もあった。
それは、経済的に裕福な家庭が多かったからなのだ。
■経済的に裕福な家庭が多かった登米町は、教育にも熱心だった
教育の拠点だった小学校は、昭和56年に重要文化財と指定された。
ここまで来るまでには、明治時代の登米町が教育に支援をしたり、小学校の建設を工夫したりと、長い道のりがあったのだ。
明治時代の登米町は教育に熱心な町だった。

投稿者 koriyama : 11:38 | コメント (8)

No.105「凹の形にしたのは学校の、各教室(授業)が良く見えるようにするためだった。」

■登米高等尋常小学校について「教育資料館」に行って調べてみた
明治21年10月に立てられた当時の洋風学校建築を代表する建物だった。
純木造の2回建で正面に向かってコの字型に作られている。
両端には六角形を半分に切った形の昇降口(六方と呼ぶ。)があり、廊下は1回2回とも吹き抜け片廊下式となっている。
特徴的なのが2回バルコニーで、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしていた。
■当時の学校について
今の宮城県の全域は、学制公布の当時は宮城県(仙台県)と水沢県とに分かれていた。それが明治9年8月に至り、宮城県と、磐井件(水沢県)とが合併して、今の八市六郡からなる地域となった。
合併前の宮城県は、6年太政管布告(明治5年7月第214号)ならびに文部省が公布した学制(同年同月第13号)にもとずいて、全管区を三中学区二百三十小学区に分ち、毎小学区に一小学校を設けることとなり、公立小学校を二百二十六項設置した。
■学制実施の大要
前述『被仰出書』の、趣旨によって公布され学制は、総ての学校に関する規則を含み頗る堂々たる者ではあったが、一面中央集権的なものであった。
即全国の学事を、文部省で統一、国内を八大学区(六年四月も七大学区に改めた)に分ち、海区に一大学区を三十二中学校に分ち、海区に一中学校を設け、一中学区を二百十小学区に細分し。海区に一小学校を建てることにした。
■旧登米高等尋常小学校の今
旧登米高等尋常小学校は今は、旧校となり、登米小学校教育記念館として使われている。
そして今も変わらず特徴的な、凹の形の校舎は今も変わらずそのままの形で残されています。

投稿者 koriyama : 11:33 | コメント (19)

No.104「教育資料館のバルコニーの天井は格天井。」

■教育資料館は、旧登米高等尋常小学校
教育資料館は明治21(1888)年10月に建てられた、洋風建築を代表する建築。
昔ながらの洋風の雰囲気を漂わせる様式は、明治中期の地方文化の結晶として、価値ある貴重な建造物である。
■実際に見て、調べてみた
四隅の柱に、柱身に縦方向に刻まれた溝を施し、柱の上端には、ギリシャ風に見事な渦まき模様の柱頭飾りである。
風雪による腐食を防ぐために全面に亜鉛板。
■明治中期の地方文化の結晶
学校建築の流れや動向を知る上で、手がかりとなる貴重な遺構。
県技術が地方の建物を設計監督したこと、明治中期の地方文化の水準を示す貴重なものである。
■教育資料館はバルコニーのある貴重な建造物だった
二階バルコニーは、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしている。
その三角部分は、しっくり仕上げとし、中央に朱色の紋章が配してある。
この紋章は、旭日を型どったもので、「朝暘の紋章」と言われている。

投稿者 koriyama : 11:33 | コメント (15)

No.103「旧登米高等尋常小学校は、コの字型設計の前にL字型が設計されていた。」

■L字型からコの字型にした理由
旧登米高等尋常小学校は教育資料館である。
コの字型にしたのは校舎全体を伺い知るために造られ、その後はトイレや授業の始めと終わりを知らせる鐘にも近いからコの字型にした。
初めの校舎を、L字型にしたのは建築者のデザインであり、こだわりでもある。
■教育資料館の中心にあるもの
教育資料館の中心にはバルコニーがあり学校全体のシンボルとなっており、洋風建築もデザインの一部に入っている。
この時代は洋風建築が盛んに造られるようになり、教育資料館も洋風建築のその一つである。
■教育資料館を建築した山添喜三郎氏
教育資料館を建築した山添喜三郎氏は当時の洋風建築の才能をふんだんに発揮し、すばらしい実績を残している。
山添喜三郎氏は明治6年に日本人初のウィ-ン万国博覧会に参加している。
■L字型からコの字型にしたのは山添氏
山添喜三郎氏がなぜ教育資料館を造ることになったかと言うと、山添は宮城県でも有名な洋風建築者であったから。
山添喜三郎氏は登米警察署も手がけている。
さらに、建物の造りが似ていて中心にバルコニーがある。
教育資料館は国指定重要文化財として現在も残っており、当時の様子を模型などで忠実に表現されていて、いまも多くの人々に伝えられている。
L字型から、コの字型設計にした山添喜三郎氏は、洋風建築を多く取り入れ教育資料館を造り、歴史に名を轟かせた。

投稿者 koriyama : 11:32 | コメント (11)

No.102「警察資料館のバルコニーは遠見台だった」

■警察資料館のバルコニー(遠見台)を造った訳
警察資料館は旧登米警察署庁舎である。
バルコニー(遠見台)でまわりを監察するためにつくられた。
登米が盛んになったため事件が多発するようになった。
登米は舟運で発展して行き警察のほうも発展していった。
■バルコニーを造った人々
山添喜三郎は厳しい検査のもとバルコニーを建設した。
その厳しい検査にとおった材料で佐藤朝吉がバルコニーを建築した。
材料を厳しく検査しているため倒産する業者があった。
■山添喜三郎三郎のこだわり
屋根に使う瓦は一枚一枚重さを量り、これを一夜水に漬けて翌日又重さを量り吸水量を調べ、一定以上の量目の瓦は全て不合格としてはねられた。
建築材料である木材も検査が厳重で瓦と同じようにはねられている。
■遠見台のある旧登米警察署は山添喜三郎が設計しておしゃれで機能的な建物だった旧登米警察署庁舎(警察資料館)のバルコニー(遠見台)は、登米の安全を守るために造られた。
山添喜三郎は瓦と木材などの検査をして素材が悪いとはねた。そのため倒産するところも多かった。
旧登米警察署庁舎は県の重要文化財に指定されている。
山添喜三郎は旧登米高等尋常小学校も設計している。

投稿者 koriyama : 11:31 | コメント (15)

No.101「校舎にバルコニーのある小学校があった。」

■教育資料館について資料で調べてみた
教育資料館は明治21年10月に建てられた、洋風建築を代表する建物。
昔ながらの洋風の雰囲気を漂わせる様式は、明治中期の地方文化の結晶として価値ある貴重な建造物と言える。
■洋風建築を実際に見てみた
バルコニーの天井は格天井になっている。
教育資料館のガラス戸も洋風。
教育資料館の窓も洋風。
和風建築を実際に見てみた
■バルコニーの屋根は切妻造りの和風。
バルコニーにある、ギリシャ風の見事な渦巻き模様の柱飾りは、洋風に見えて実は和風。
すべての柱が通し柱も和風。
■旧登米高等尋常小学校の校舎とバルコニーは洋風と和風造りだった
和風を基本に洋風を取り入れたり、洋風を基本に和風を取り入れたりと、洋風のいい所と、和風のいい所を取り入れ、うまく調和して和洋折衷の造りになった。
教育資料館は、何かをすっかりそのまま真似たのではなく、洋風と和風を自分で作りあげた、努力のたまものである。

投稿者 koriyama : 11:25 | コメント (9)

No.235「登米の人口は減りつずけている」

■登米町のことに詳しい人に聞いてみた
たしかに現在は人口が減りつずけている。
昔は登米町には蒸気機関車が走り様々な物を運んでいたそのため登米町は物流の拠点だった。
しかしその機関車も5年で廃止になり物流の拠点は段々他の町村に移っていった。
■なぜ人口が減ったか
蒸気機関車がなくなり東北本線等の鉄道が発達し機関車が果たしていた役割を他の鉄道が果たしていった。そして完全に物流の拠点が他の町村に移ったころには人口が減っていた。
■現在は観光客が多い
最近、国の文化財や文化遺産がCMの撮影場所になってから登米に観光客が増えた。
休日や大型連休になると観光客が大勢来て町はにぎわっている。
■物流の拠点から観光スポットへ
登米には昔、蒸気機関車が走っていて様々な物をあちこち運んでいた。そのため登米町は物流の拠点だった。しかし、蒸気機関車は5年で廃止になり物流の拠点は段々別の町村に移っていった。さらに、東北本線等の鉄道が発達したため物流の拠点は益々移っていった。そして物流の拠点でなくなった登米町からは人影が消えていった。しかし,いくつかの貴重な文化財をいかし町は再び賑わいを取り戻しつつある。

投稿者 koriyama : 11:21 | コメント (17)

No.234「山添喜三郎は屋根から降りれなくなったことがある」

■山添喜三郎は川の中へ人力車ごとなげられたことがある
恨みを抱く業者からあるとき川の中へ人力車ごと放り込まれたという。おそらくものすごくイッタかったのだろう。
■山添喜三郎建築材料のこだわりはものすごかった
屋根に使う瓦は一枚一枚重さを量りこれを一夜水に漬けて翌日又、重さを計って吸水量を調べ一定以上量目の瓦はすべて不合格としてハネたといわれている。
そのため収入する瓦屋はつぎつぎと倒産したとていう。
■山添喜三郎は屋根から降りれなくなったことがある
工事の厳しさから山添に恨みを抱くものがいて検査のため屋根に上った所、椅子をはずされて昼食になっても夕方になっても下に降りれなくなったこともあるという。
このことから山添は人から恨まれていたことがわかる。
■山添喜三郎はすばらしい人物だった
自分の仕事に誇りをもっていて自分がなっとくいくまでいいと

投稿者 koriyama : 11:21 | コメント (18)

No.233「旧登米尋常小学校は町の人たちのお金で建った。」

■旧登米尋常小学校とは・・・
洋風建築家だった山添喜三郎に旧登米尋常小学校を作るのを依頼した。
洋風と和風の良いところだけを抜き出し、使い勝手のいい建物にしようとした。
旧登米尋常小学校のデザインを洋風と和風の混ざったデザインになった。
■町の人たちのお金でなぜ建てたのか
県や国側が、「町村で作れ」と言い、小学校の建設費を1円も出してくれなかった。
町の人たちで協力し「募金」をして、建設費の3500円総事業費5874円(昔の金額)という、たくさんのおかねをあつめた。
旧登米尋常小学校は、町の人たちの協力によって建てられた。
■どうしてそんな大金が町の人だけで払えたのか
登米はその当時、とても栄えていて、石巻か登米か、どちらかが発展するだろうと言われていた。
そこから、登米にはたくさんの人が集まっていたことが想像できそれによって、町の人たちは、たくさんのお金が手に入れられることが出来た。
■町の人たちのお金で建ったのは本当だった
町の人たちは、この小学校が建って、「自分たちで建てたんだぞ!」と周りに「県や国のお金で建てたんじゃない!」「県や、国のものではない!」と言ったといわれている。
これからも、町の人の宝物として残ってほしいと思う。

投稿者 koriyama : 11:20 | コメント (14)

No.232「牢屋やパトカー、白バイも見られる資料館がある」

■警察資料館の牢屋の内部
留置所は窓がなく、暗かった。
■警察資料館の牢屋のトイレ
トイレはとても使いにくそうだった。
■警察資料館内部の牢屋
留置所の入り口はとても低かった。
■登米警察資料館では牢屋に実際に入れたり、パトカーや白バイに乗れるすごいところだった
旧登米警察署は現在、登米警察資料館になっている。
パトカーは内部が黒で渋い感じがした。
白バイは古い感じのバイクだった。
牢屋はけっこう見た目よりは内部は広かった。
パトカーや白バイには乗ってもいいが、牢屋には入らない方がいい。

投稿者 koriyama : 11:19 | コメント (9)

No.231「旧登米高等尋常小学校はとっても丈夫だった」

■明治21年から今でも使われているものは・・・
旧登米高等尋常小学校は明治21年に建築された。
現在は教育資料館として使われている。
明治21年から今でも使われているもの、それは瓦。
屋根の瓦の1/3を今でも使用している。
■じょうぶなところ
やぶれやすい障子・雨戸ではなく、ガラスにした。
日本古来の高床式である。
吟味した瓦、全部が通し柱。
コンクリートではなく土台石・時間をかけてつくった基礎づくり。
■国指重要文化財に選ばれた理由
理由は2つほどある。そのうちの1つはとっても丈夫なところ。
長年使われているのに、丈夫さを保っているところ。
主に丈夫なものは、柱と瓦である。
■旧登米高等尋常小学校は地震にもびくともしない学校だった
これまで4回も大きな地震があったが、どこも壊れていないという。
尋常小学校はとても丈夫で、立派な学校でした。
丈夫につくったおかげで、今でも丈夫さを保ってあり、歴史的でいい建物だなと思いました。

投稿者 koriyama : 11:18 | コメント (10)

No.230「学校バルコニーは、山添喜三郎が作って見たかったからできた。」

■バルコニーについて、教育資料館の人に聞いてみた。
明治21年10月に山添喜三郎が作った。
登米旧小学校にはバルコニーがついている。
今までなかった洋風の学校を作ってみたかったのである。
■バルコニーはこうしてできた
学校の中には洋風の部屋がある
ヨーロッパの擬洋風建築を学校に取り入れた。
バルコニーがメインでコ字形の学校を建築した。
■バルコニーは役にたっていた
校長先生が毎朝バルコニーから生徒にあいさつをしていた。
バルコニーから全部の教室見ていた。
■バルコニーでの感想
登米旧小学校のバルコニーは山添喜三郎が作ってみたかったからできた。山添さんは日本にはない学校を作ってみたかったからできた。
門から見るとバルコニーが1番めだっていた。
バルコニーは警察資料館にもついていた。

投稿者 koriyama : 11:17 | コメント (22)

No.229「教育資料館の形はコの字だった。」

■教育資料館の歴史
教育資料館は、旧登米高等尋常小学校として、明治21年10月に建てられた。
教育資料館は、当時の洋風学校建築を代表する建物である。
昔の児童数は、当時としては、477人で、県内最大だった。
■学校の特徴
1階の窓には、霧よけの庇(ひさし)が付いている。
バルコニーは、校舎全体の中心的な位置に、シンボル的な役割を果たしている。
廊下は、1階2階とも吹き抜けの片廊下式となっています。
■コの字型の教育資料館には教育の歴史があった
明治以降の教育史、各時代の教科書、なつかしい再現教室等を、展示している。
■コの字に設計した理由
コの字に設計したのは、校舎全体が、見わたせられるようにするためにした。
バルコニーや入り口など、どこから見ても、校舎全体が、見えるようにした。
これを調べて教育資料館のいろいろなことが分かった。なぜ、コの字にしたか分かってすっきりしてよかった!

投稿者 koriyama : 11:16 | コメント (16)

No.228「警察資料館にはバルコニーがあった。」

■資料館の担当の人に聞いた。
資料館のバルコニーからは、悪い事をしていないかを双眼鏡でチェクしていた。
明治中期の疑洋風建築として極めて珍しいもので、貴重な文化遺産と言える。
明治22年に建てられて、昭和43年まで登米警察署として使われていた。
洋風を取り入れた木造2階建で2階に吹き抜けのバルコニーがあります。
■バルコニーとは
同じ造りの教育資料館バルコニーは、ステンレスのようなものが床に張られている。
バルコニーは、箱型のような形をしていて、2階にあるので見晴らしがとても良い。
■現在の資料館は
館内に明治時代の警察署内の様子が再現されている。
資料館は、昭和63年に現在の姿に復元された。
■警察署の今とバルコニーは
木造の留置場・警察の制服や装備類を展示日本唯一の警察資料館として公開している。
今は、バルコニーには出れませんが外からは、ちゃんとバルコニーが見えます。
ちなみに、「遠山の里」の斜め向いにある旧登米警察署に、現在の立派な警察署にもバルコニーはありません。
バルコニーは、明治だけにあった大事な物だと思った。

投稿者 koriyama : 11:14 | コメント (7)

No.227「森舞台の瓶は京都の能舞台の瓶と同様に配置している。」

■瓶の役割は
森舞台は謡曲会会員の要望で建築された。
舞台下の瓶は、演者が床を踏んだ時の音響効果を高めるためのもの。
■瓶の位置は西本願寺能舞台と同様に配置されている。
舞台下の瓶の向きや位置は京都西本願寺能舞台を参考に配置している。
瓶は全ての舞台に配置されているわけではない。
瓶の位置、向きは決まっているが、舞台によって多少異なる。
■森舞台関係者はこう言う。
平成8年にオープンした森舞台の建築には多くの専門家が協力し、「森舞台は、森に対し、また、能を愛する全ての人々に対して開放されている。」と設計担当者は言う。
森舞台は能だけでなく、落語の会場になることもあり、1時間900円で貸し出しも行っている。
時々夜に竹林から舞台をライトアップすることがある。
■瓶の位置は日本最古の能舞台を真似ている
舞台下の瓶の位置や向きは、現存する日本最古の能舞台・京都西本願寺北能舞台を参考に配置されている。
今回森舞台について取り上げてみましたが、資料が少なくて詳しく載せることは出来ませんでした。
舞台は予想よりも、とても質素でした。

投稿者 koriyama : 11:13 | コメント (9)

No.226「旧登米尋常小学校の生徒数は多い時で2000人にもなった。」

■教育資料館の方の話
旧登米尋常小学校は明治21年に建てられた、建てられたばかりの頃の生徒数は300人くらいだった。
■なぜ旧登米尋常小学校の生徒数が増えたか
旧登米尋常小学校の生徒数は少しずつ増え、多いときには2000人にもなった。
それは建物の形がそれまでとは違い、とても珍しかったためということの他に、登米町は物流の拠点で人口が多かった、近くには他に小学校がなかった、という2つの理由もあった。
■建物に対する生徒と町民の反応
校舎は和と洋のいい所をとってつくってあり、生徒たちはその珍しいつくりを見て「自分達もがんばろう」という気持ちで授業を受けていた。
旧登米尋常小学校は町民の人たちの寄付金でつくられた為、立派につくられて町民の人たちは誇りに思った。
■旧登米尋常小学校は生徒数300人から生徒数2000人までにもなった小学校だった。
旧登米尋常小学校の生徒数が2000人にもなった理由は、建物の形が珍しかったから、登米町の人口が多かったから、近くに他の小学校がなかったからだった。
旧登米尋常小学校について調べて「へぇ~、そうなんだ」と思うことはたくさんありました。とくに、生徒数が2000人だった、ということが分かった時は、郡中でも1000人いないのにすごいなぁとびっくりしました。

投稿者 koriyama : 11:12 | コメント (9)

No.225「相模土手の完成で北上川を定めた」

■相模土手の計画
白石相模宗直が北上川の流路を変える計画を6年費やした大工事で北上川の流路を変えた相模土手を完成させた。
川村孫兵衛重吉工事に先んじて作られた。
名前の由来は、白石相模宗直の相模をとって相模土手となずけられた。
■流路を変える計画はこうした理由で決めた
登米はもともと、北上川と追川が合流し野谷地と呼ばれる湿地や沼地が広がる荒れた土地だった、それを見た白石相模宗直が流路を変えることを、決めた。
計画は3657間(約6,6キロ)の堤防を築いて支流である追川と分離し、流路を西から東に変えた。
■宗直が流路を変えるまで
宗直が水沢から登米に来たのは慶長9年(1604)年のことで登米の領地の惨状を目の当たりにしたことから、北上川の流路を変えることを決めた。
■荒れた土地を米作地帯にした相模土手はすごかった
治水には、武田信玄の技法が使われていた
白石相模宗直の知力は、素晴らしいものだった
相模土手の完成で荒れた野谷地を仙台藩でも有数の米作地帯となった
相模土手と信玄堤は親戚だった

投稿者 koriyama : 11:11 | コメント (12)

No.224「教育資料館のバルコニーにはひみつがある。」

No.224「教育資料館のバルコニーにはひみつがある。」
■旧登米尋常小学校とは
明治21年10月に建てられた。現在教育資料館として公開されている。当時の洋風学校建築を代表する建物。
昔ながらの洋風の雰囲気を漂わせる様式は、明治中期の地方文化の結晶として価値のある貴重な建造物と言える。
■旧登米に詳しい方はこう語る
バルコニーは、腐食を防ぐために全面に亜鉛板を敷きつめている。
バルコニーにのぼると、校舎全体が見わたせる。
バルコニーは校舎の中央にあって全体のシンボルとなっている。
■バルコニーの紋章
バルコニーには、中央に朱色の紋章が配置してある。
この紋章は、旭日を型どったもので、「朝陽の紋章」と言われている。
■バルコニーはとても大切な役割を果たしていた
教育資料館にとって、バルコニーは重要な役割を果たす大切なもの。
平成元年に保存修復作業を行い、建築当初の状態に忠実に復元してある。

投稿者 koriyama : 11:10 | コメント (9)

No.222「明治の学校の様子は今とはほとんど違っていた。」

■実際に行って調べてみた。
教室は巾三間、長さ四間中に30人ときめられていた。
壁は灰色にし、カーテンは、ベージュで教室が明るく見えるようにしてある。
■今と違うところ
教壇がある所は、床が1段高く、全体が見渡せるようになっている。
この風景は、いまと同じような感じがした。
■教室の物は今とほとんど同じ
教室には、ピアノやそろばんがある。
先生は真ん中に立ち、教えていた。
黒板は今より少し大きい感じ。
■机に大きな違いがあった。
机は2つつながっていて、2個で1個。
机は板が上にあがり、そこに荷物を入れていた。
机の並び方は、前は小さく、後に行くほど大きくなっている。前・小→後・大

投稿者 koriyama : 11:09 | コメント (12)

No.221「教育資料館は火事以外の被害には耐えられた。」

■教育資料館は旧登米尋常高等小学校
明治21年に建てられた。
この校舎には特徴的なバルコニーなどがある。
この校舎は和風と洋風の2つのいいところがある。
■教育資料館とは・・・。
特徴的なのが2階のハルコニーで、校舎全体の中心的な位置にある、シンボル的な役割を果たしています。
1階の窓には霧よけの庇がついているのも特徴的。
平成元年に保在修復作業を行い、建築当初の状態に忠実二復元してあります。
明治以後の教育定史、各時代の教科書、なつかしい再現教室等を展示している。
■どうして火事以外の被害にたえられるのか。
吟昧した瓦、全部が通し柱
日本古来の高床式
コンクリートで無く土台石
時間をかけて地盤でつくった。
■教育資料館は火事以外の被害に耐えられた。
それは、吟味した瓦で全部が通し柱になっている。日本古来の高床式で、コンクリートでなく土台石に出きているから。時間をかけて地盤でつくったからです。
それに対して火事に耐えられないのは、校舎が木造で造られているから。

投稿者 koriyama : 11:08 | コメント (19)

No.220「旧登米高等尋常小学校の昇降口は六角形を半分に切った形だった。」

■旧登米高等尋常小学校に詳しい方はこう語る。
当時、洋風の小学校が盛んに建てられていて設計者山添喜三郎が欧米の建築様式を取り入れて設計したかったから、昇降口を六角形の形にした。
建設にたずさわった大工は初めて見る六角形の木組みの設計図を見て造るのに非常に苦労した。
■保存修復作業では・・・
平成元年に、旧登米高等尋常小学校の保存修復作業が行われた。
現在も、柱と瓦の半分は明治21年の建設当時のままだ。
昇降口は、地面を土・砂利からコンクリートへと塗り替えられた。
■設計者は山添喜三郎
山添喜三郎に依頼したのは、宮城県の技手だったからだ。
昇降口を六角形の形にしたのは、当時を代表する欧米風の建築様式を取り入れたかったからだ。
■旧登米高等尋常小学校の昇降口は洋風を取り入れたおしゃれな昇降口だった。
六角形を半分に切った形の昇降口を『六方』(ろっぽう)と言う。
当時の人々は、旧登米高等尋常小学校の洋風建築に対しとてもビックリしていたようだった。
旧登米高等尋常小学校は、和風と洋風のそれぞれ良いとこを取り入れて出来た学校だと言うことがこの研修で分かった。

投稿者 koriyama : 11:07 | コメント (14)

No.219「山添喜三郎は、ちょっと時代遅れだった。」

■山添喜三郎とは、
ヨーロッパ建築を学んだ建築技師
登米の旧小学校や、旧警察署などを手がけた。
大正12年に、永眠しました。
■資料によると
山添は、ヨーロッパへいき擬洋風建築を学んだ
そこでは、擬洋風建築の第一人者だった。
だが、帰ってきたころには、辰野金吾、片山東熊たちがすでに洋風建築をひろめていた。
都会などではすでに広まっており、県外に派遣され、登米で活躍!
■その結果
宮城県登米町では、腕を評価され、登米旧小学校、旧警察署をてがけた。
他に、仙台では紡績会社の建築もてがけた。
今では、旧登米小学校や、旧登米警察署などが、重要文化財になり大切に保管されている。
■まとめ・感想
山添喜三郎さんは、少し時代遅れではあったが、瓦一枚にこだわるなど、丁寧な、建築技師であることがわっかた。
今回このことを調べて、少し遅れても丁寧にやることが大事ということがわかった。

投稿者 koriyama : 11:06 | コメント (13)

No.218「旧登米尋常高等小学校が県内最大だったのは周辺に学校が1つしかなかったからだ」

■教育資料館の歴史
教育資料館の竹内館長さんは語る。
登米はけっこう田舎だった。
明治21年10月に旧登米尋常高等小学校が建てられた。
明治9年に生徒数477人になり県内最大になった。
■県内最大になった理由は?
県内最大になったのはいくつかの理由がある。
周辺に小学校が旧登米尋常小学校が1つだったのと洋風建築で当時の人々はめずらしがり子供達はこんなりっぱな小学校で勉強できることを嬉しがっていたそうだ。
■国指定重要文化財になった理由は?
明治56年には国指定重要文化財に指定された。
なぜ国指定重要文化財になったかというと、とても丈夫で瓦が三分の一、昔のものを使用していて、和風の中に洋風の良さがあるので、国指定重要文化財に指定された。
■県内最大の理由は地域に1つしか学校がなかったからだった!!
当時の子供は、ビックリしていたがとてもうれしがって評判の良い小学校であった。
県内最大だったのは、地域に1つしか学校がなかったことがわかった。他にも洋風の造りが当時の人にめずらしいということもあって最大になったこともわかった。

投稿者 koriyama : 11:05 | コメント (10)

No.217「登米能で森舞台は、長年町民に受け継がれている」

■森舞台は、どのようにして建てられたか
地域文化の活動拠点として建設されたものである。
本格的な能舞台を備えて、平成8(1996)年6月1日にオープンした。
能舞台は、本舞台・橋掛り・地謡座・後座(横板)の四部分から成り、正面奥の鏡板には日本画家千住博製作の老松と若松(右側面)が描かれてある。
舞台の下に置いてある瓶は、演者が床を踏んだ際のポーンっと響くように置いてある。
■どうして受け継がれているのか
登米町には藩制時代から伝わる「登米能」をはじめ「岡谷地南部神楽」や「とよま囃子」など伝統芸能が盛んである。
■何故登米町に能があるのか、能の特徴・歴史は
何故登米町に能があるのは、ようきょく会があって会員の要望により森舞台がつくられた。
能は、藩制時代に武士しか見れなかった。
■登米能は、今も受け継がれている!
今も登米能をやっていて、長年町民に受け継がれている。
他の場所では、あまりやっていないため登米町でやっている。
年を通しての練習と毎年6月と9月に薪能として演目を変えて、上演している。

投稿者 koriyama : 11:05 | コメント (18)

No.216「警察の制服は12種類もあった」

■警察の制服について
警察の制服で一番最初にできたものは、明治22年でした。
警察の制服は、冬礼服と夏礼服、音楽隊員用冬服と警察官服(男&女)と活動服(男&女)と夏礼服(男&女)と鑑識事従員用作業服と、航空機操縦士服と機動隊出動服の12種類の制服がありました。
■制服が展示してある警察資料館ついて
警察資料館は明治の洋風事務所建築としては、極めて珍しいもので、昭和63年の、県の重要文化財に指定されました。
昭和61年には保存修理が行われました。
■実際に見てみると・・・
制服が作られた日がはやい方から、左の方から順番に、右の方へならべてありました。
制服には、必ずぼうしもついていまいた。
■警察の制服の種類は、なんと12種類もあった!
警察の制服は、明治22年から、だんだん改良(かいりょう)されていき、12種類の制服ができました。
警察の制服は、そのときによって、着る服が違う。昔の警察の制服には12種類もの種類があるということがわかった。
ちなみに、私がもっている服の種類は8種類だった・・・。

投稿者 koriyama : 11:04 | コメント (19)

No.214「登米の貴重な文化財を私財を投げ打って守った人がいる」

■渡辺政人のことに詳しい人に聞いてみた。
明治25年12月2日に次男として宮城県登米郡登米町日根牛五郎峰38番地に生まれた。
明治大学の理事長だった。
昭和37年4月に紺綬褒賞、昭和39年12月に飾板木杯、昭和40年11月に民生安定功労者などの賞をもらっている。
■渡辺政人はこのようにして登米の文化財を守った
登米にまつわるものが外国に流れないように渡辺政人は集めて懐古館を建てて全て寄付した。
そして懐古館に渡辺政人コレクションという展示室を設けられて懐古館の名誉館長となった
■その結果・・・
懐古館に寄付したことにより登米町の名誉町民となった。
その後、紺綬褒賞、飾板木杯、民生安定功労者など3つの賞を受賞した。
高い地位つきいろいろな会長や社長になったという
■文化財を守った渡辺政人はすごい人だった
3つの賞をもらった(紺綬褒賞、飾板木杯、民生安定功労者)民生安定功労者は宮城県知事から受賞している。
渡辺政人は登米町のために私財を投げ打って登米の貴重なものを守った渡辺政人はすごい人だった

投稿者 koriyama : 11:03 | コメント (8)

No213「教育資料館のバルコ二ーは校舎のシンボルだった」

■バルコニーはなぜ校舎のシンボルなのか
校舎の中心にあり全体のシンボルとなっている。
バルコニーは全校舎が見える。
コの字型の校舎は全体を伺い知ることができる。
■建設デザイン
当時は洋風小学校が多かったのでバルコニーにこだわっていた。
2Fは本屋根。
■校舎建設
建設費は当時のお金3500円。
建設期間は506日。
■教育資料館の特徴
バルコニー、吹き抜け片廊下六角形を半分に切った形の昇降口などの造りにこだわった。
特徴的なのが2階バルコニーで、校舎全体の中心な場所にある

投稿者 koriyama : 11:02 | コメント (11)

No.212「山添喜三郎はバルコニーに力をいれた。」

■山添喜三郎
31歳の時尾伊兵衛ともにウイーン博監会の日本館造営を命ぜられ渡欧。
天保十四年九月一五日に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたとされている。
■教育資料館の人に聞いた話。
教育資料館の人に聞いた話では、バルコニーは大切な資料館のシンボルである。
バルコニーからは全校舎が見え、北上川が見えるからバルコニーはいろいろな事に使うので、もっとも力をいれ造った。
■山添喜三郎がバルコニーに力を入れたところ
洋風欄干付きの手すりを廻し、風雪による腐食を防ぐために全面に亜鉛板を敷き詰めている。
ギリシャ風の渦巻き模様が柱頭に飾られている。
■山添喜三郎の造ったバルコニーは大物だった。
山添喜三郎はバルコニーに洋風をいれ、いろいろな所に工夫をし、教育資料館のシンボルにもなった。
山添喜三郎をどんどん調べていくうちに山添喜三郎のいろいろな事がわかりました。
なぜ今の教育資料館に洋風を入れた事や警察資料館と同じ造りにしたかなどわかった。

投稿者 koriyama : 11:01 | コメント (11)

No.211「教育資料館のバルコニーは校舎のシンボル。」

■バルコニーはなぜ校舎のシンボル
旧登米尋常小学校の中央にあり、全体のシンボルとなっているから。
バルコニーは、全校舎が見え北上川が見えるので良い。
コの字型の校舎の理由は、校舎全体を伺い知る事ができるから
■建設デザイン
当時は、洋風小学校が盛んだったので、バルコニーなどにこだわっていた。
二階には、本屋根がある。
■校舎設立について
校舎建設費は、当時のお金で3500円。
校舎建設期間は、506日。
■旧登米尋常小学校のバルコニーは今も教育資料館のシンボルだった
バルコニーを見て、なんとなくだがバルコニーがシンボルとなっている理由が分かった。
実際のバルコニーや校舎を見て、バルコニーはなかなか大き、校舎全体が見えるとはすごいと思った。

投稿者 koriyama : 11:01 | コメント (12)

No.210登米の武家屋敷は今も使われている

■「みやぎの明治村」登米
登米には武家屋敷以外にも、白壁の壁や、明治の洋館などある。
「みやぎの明治村」と呼ばれるほどに、歴史ある雰囲気のある町である
■登米の武家屋敷
登米の武家屋敷は、ひろまと呼ばれる別棟を本屋の正面に置くという形式が一般である。
また、伊達宗直の登米移封の際、水沢から移住してきた鈴木氏の「春蘭亭」も残っていて、登米の一般形式と違う「直ご家形式」を今に残している。
■現存する武家屋敷
町人たちに元々「保存」の意思はなく、実際に住まわれることが保存に繋がり、当時のままの門構えが残っている。
その中のひとつである「春蘭亭」も、同じように当時のままの姿で、現在はお休み処として使用されている。
■武家屋敷は住みながらに保存されていた。
現存する武家屋敷は門のみが8軒、その他が9軒、計17軒現存している。春蘭亭以外の屋敷は、一般公開はされていない。
登米の人々は、武家屋敷を家として利用し、同時に昔ながらの門構えを残していた。

投稿者 koriyama : 11:00 | コメント (12)

No.209「教育資料館は重要文化財に選ばれた」

■教育資料館について
昔は教育がなかった。しかし教育はこれから必要だと考え、学校を作った
県内最高の生徒数477来た。
明治22年町の予算48%教育にかけたりしていた。
卒業者数をみても教育にかける熱意、意識があった。
■重要文化財になった理由
重要文化財になったのは昔ながらのうまくのこし教育資料館に作り変えた。
ずっと使われてきた。
毎日大切に使われ続けていた。
■かかった建設費用と建設期間
建設費3500円
総事業費5874円
期間506日
今では合計現在の建設費用は約8000万円
■教育資料館が国の重要文化財になったのは
建設費と期間と保存の良さだった。
登米町は昔のことがわかる町だった。
登米は国内指定重要文化財があるすごい町だ。
登米の人達は昔の物を大切にしてきた。

投稿者 koriyama : 10:59 | コメント (9)

No.208「能舞台の下に瓶がたくさんある。」

■森舞台の周りは自然的だった。
実際に見たら、竹林がたくさんあって、とても明るい感じの森舞台。
古代の森舞台を表すような現代、夜になると、ライトアップされる。
能舞台は、本舞台の橋掛かり・地謡座・後座(横板)の四部分から成り立ちます。
■瓶の上にある立派な建築
本格的な能舞台を備えて、平成8(1996)年6月1日にオープンした。
小鳥のさえずりがある、森・楓・竹林の中に森舞台がある。
その年の建築学会賞に輝きました。
■能をする前の準備・お祭りの時期。
能を演出する前、役者は鏡の前に立つ。
毎年、6月と9月に「秋祭りの」をする。
■舞台の下にある瓶は、大事な役割がある。
舞台の下に置いてあるたくさんの瓶は、役者が床を踏んだときの響かせるために置いてある。
「ポーン」と響く音響効果を高めるための大事な役割を担ってます。
瓶の位置・向きは現在する日本最古の能舞台であります。

投稿者 koriyama : 10:59 | コメント (16)

No.207「登米の小学校では1校に対して教員は2~3人だった。」

■当時の学校状況を調べてみた。
登米には622の小学校があった。
1校には約250人の生徒がいた。
250人に3人と言うのはやはり大変。
当時明治6年には6種類の学校があり15以上の教科があった。
半年に一学年上がる制度だった。
「管内小学校一覧」と言う本にのっていた
■一部公開
小学校生徒数教員数
三百人町4673
東二番丁5163
大仏前6983
北六番町6113
他14校
本当だった
■建設はこの様に行われた
設立したばかりだったので教員が少なかったらしい。
旧登米尋常小学校の校舎は、今の小学校の半分位だった。3500
建設費は、当時のお金で3500円だった。
建設には、鉄柱などにお金をかけ木材には、お金をかけられず、廊下の板は、1種類の木でつくられた。
■苦労したと思われる生徒や教員
生徒も教員も両方大変だ。
現在の学校制度は、生徒40人に対して教員が1人だ。しかし当時

投稿者 koriyama : 10:58 | コメント (10)

No.206「渡辺政人の性格はやさしい人」

■渡辺政人の生まれ、した事
渡辺政人は、父徳兵衛、母かの、の次男として生まえる。(5人兄第の末っ子)
昭和37年4月紺綬褒賞。昭和39年12月飾板木杯受賞。
英会話、漢字、建築などの学校に通う。
■渡辺政人の性格
懐古館のおばさんがいうには、人のために、お金をつかい、やさしい人。
昔すごい経験をし、苦難を乗り越えた人だからこそ、やさしくなれると言っていました。
あと、懐古館を造るのに、寄付を送ったことも懐古館の人は、褒めていました。
■渡辺政人が寄付を送った理由
海外に伊達家の物を売る前に、懐古館を建て、展示してしまおうと思ったから。
そして、昭和36年から、一般に公開しています。その後、昭和63年から展示内容の充実を図るため増改築を行い、平成2年に新装開館し、貴重な文化財約130点を収蔵しています。
■渡辺政人は、本当に優しい人だった。
人のために多額のお金を使い、人だけでなく歴史的文化財にも関心を持った優しい人だった。

投稿者 koriyama : 10:56 | コメント (14)

No.205「森舞台で結婚式ができる。」

■どうやって借りるのか?
1時間900円で借りることができる。
入場料は1人200円。
本当は能をやる所で6月と9月に年2回やっている。
落語をやることもある。
■森舞台を建てた理由
城下町を知ってもらうため。
ようきょうかい会の人達によって建てられた。
平成8年に建てられた。
■どんな建物か?
玄昌石で屋根ができている。
建築したのは、隅健吾さんで絵を描いたのは、千住博さんでその絵は100年ももつ。
建築学会賞に輝いた。
台の下にある瓶は、スピーカーのかわりになっている。
■森舞台は、結婚式にも適した現代的な建物だった。
木でできていたので、ドレスより着物だ。
和風な結婚式になるのでは?(和食)

投稿者 koriyama : 10:40 | コメント (14)

No.204「水沢県庁には開かない扉があった。」


■水沢県庁について。
明治4年に建てられた。
明治8年庁舎が一関に移されるまで使った。
小学校や治安裁判所などに使われた。
平成2年に治安裁判所(明治22年頃)の姿に復元された。
■実際にやってみた。
扉に手をかけた。
ドアノブを回した。
しかし開かないのでもう一度回してみた。
そして結局開かなかった……
■水沢県庁のつくり
玄関は堂々たる入母屋造り。
破風は狐格子で純和風だが、付属棟は洋風平屋。
県内の官公所建築を代表する貴重な建物。
洋風の意匠の中に和風の手法を取り入れた日本独自の和洋折衷建築といえる。
■開かない扉は本当に開かない扉だった。
ちなみに開かない扉は二つあった。
開かない扉がある部屋は、人民調所という部屋と入り口の近くにあった。

投稿者 koriyama : 10:38 | コメント (22)

No.203「登米警察署のバルコニーで、悪人探しをしていた。」

■警察署はこうしてできた
警察署は明治22にバルコニーと共に建てられ、昭和43年まで登米警察署として使われた。
洋風を取り入れた二階建てで、二階に吹き抜けのバルコニーがある。
ちなみにこの建築は建築者、山添喜三郎のセンスである。
■バルコニーの活用
そんなバルコニーも、警察署としても重要な役割があった。それは、悪人探しである。下から(1階)からのながめは、ほんの近くしか見れないが、2階になると北上川まで見えるほどよくみえる。
バルコニーを造るとき、力を入れたのも悪人探しのためだったという。
■バルコニーの役目と評判
そのバルコニーのおかげで悪人をみごと捕まえることができた。
このバルコニーは明治中期の擬洋風としてすごく珍しい貴重なものとして扱われている。
■警察署のバルコニーはただの飾りではなかった
明治22年にバルコニーと共に警察署が建てられた。バルコニーから北上川まで見渡せるので、悪人探しに活用していた。この警察署は明治中期の擬洋風として珍しく、貴重な建物がある。
これらの活用、役割、そして評判からするとこのバルコニーはただの飾りでなく、大切な存在だった。

投稿者 koriyama : 10:37 | コメント (13)

No.202「旧登米高等尋常小学校の2Fの柱は、フクロウがイメージされている。」

■旧登米高等尋常小学校に詳しい人は、こう語った。
登米高等尋常小学校は、明治21年10月に建てられた。
当時の洋風学校建築を代表する建物だった。
■尋常小学校の建物は、いろんなところにこだわって建てられた。
2Fの柱の、上の方を見ると、フクロウがイメージされてある。
その柱は、木をまるごと1本使って建てられた。
どんな大きな地震がきても、びくともしない。
■その、フクロウはどういうものか・・・。
真ん中に大きな柱がある。
天井と大きな柱によってできた、垂直な部分が両側に2つある。
その垂直なところ2つが、三角形になるように、それぞれ、木がななめについている。
それによってできた三角形2つの中に、丸い目になる部分が、ついている。
それが、フクロウです!!
■これを見た、子供たちの反応、また、どういう理由でつくったのか?
子供たちは、まるで、学校に動物がいるような気分で、とてもうれしがっていた。
めずらしいデザインで、とてもビックリしていた。
これをつくった理由は、この建物に、ちょっとだけ遊び心を取り入れてみようと思ったから。
2Fの柱は、ちょっとした遊び心でつくられた!!
ただの柱がフクロウになり、子供たちの評判も、とてもよかった!!
そのフクロウの柱は、どんな大きな地震がきても、びくともしない!!
ちょっとした、遊び心でつくられたフクロウであった!!

投稿者 koriyama : 10:36 | コメント (10)

No.201「教育資料館のバルコニーにある紋章の名前はりっぱである。」

■教育資料館について
教育資料館は昔ながらの洋風の建物で、国指定重要文化財となっている。
バルコニーはシンボル的な役割を果たしている。
廊下は、1階2階とも吹きぬけの片廊下式となっている。
バルコニーからは学校全体を見わたせるようになっている。
■バルコニーの特徴
洋風欄干付のてすりを廻している。
天井は、格天井で、屋根は切妻造となっている。
風雪による腐食を、防ぐため、全面に亜鉛板を、しきつめている。
■紋章について
バルコニーの中央には、紋章がある。
紋章の色は、朱色となっている。
三角の部分は、しっくい仕上げに、なっている。
■バルコニーにある紋章には、「朝陽の紋章」というりっぱな名前がついている。
バルコニーにある紋章は、旭日を型どったものだから、「朝陽の紋章」と、よばれていた。
そのバルコニーは、正面に向かって、コの字型に造られている。
実際にバルコニーにいってみたら、バルコニーはけっこう広くて、学校全体のことをみわたせた。

投稿者 koriyama : 10:35 | コメント (14)

No.435「登米の原音はトオイマイをかたどったもの」

■実際に聞いてみた
天保6年に藩より許可がでてここで登米と決定しました。
トヨマの原音は言語学者金田一京助氏によると、アイヌ語のトオイマイをかたどったものでわないかといわれています。
トオイマイの意味はアイヌ語の「食べられる土のあるところ」という意味をもっています。
■登米の由来
公式には、天保6年[1835年]年「登米郡と相称候様」と藩より許可がでており、ここで登米[とよま]決定しました。
登米の原音は、言語学者金田一京助氏によりますとアイヌ語のトオイマイをかたどったものではないかと言っています。
■トオイマイとは
トオイマイは「食べられ土のあるところ」という意味があります。
福島県いわき市内に豊間[とよま]というところがあり、そこからは昔アイヌが食べたと思われるアルカリ性白岩石が採掘されているといわれており、この地でも同じ石灰岩が産出されているのを見ると、トオイマイがトヨマをかたどって呼ばれているのもうなずけます。
■まとめと補足
登米と名前が決定したのは天保6年[1835年]
登米の原音はトオイマイをかたどったもので意味は「食べられる土のあるところ」
食べられる土というのはアルカリ性の石灰岩のこと。そして福島県のいわき市内に豊間という所で同じ石灰岩が産出されていたから登米と呼ばれるようなったのもうなずける。

投稿者 koriyama : 10:30 | コメント (5)

No.434「明治時代の教科書はカタカナが多い。」

■実際に聞いて見た
現代人には、カタカナの教科書は、とても読みにくい。
しかし、この時代の人々もカタカナの教科書は、読みにくかったのではないのではないのか。
■実際に見てみた
今から約100年ほど昔、新5000円札の肖像画の樋口一葉が小学生の時,当時の教科書は、カタカナがとても多く、漢字は一字~三字までなのだ
その漢字はとても古く,読みにくかった。
■当時の写真をご覧ください
明治時代の教科書はカタカナが多い。
教科書は、江戸~明治前半まではカタカナの教科書を、学習に使用していた。
ちなみに、明治時代後半には漢字が増えた。

投稿者 koriyama : 10:29 | コメント (8)

No.433「バルコニーは洋風と和風のミックスである。」


■バルコニーとは。
バルコニーとは西洋建築で、建物から外にはみ出し手すりなどをめぐらした台です。
■教育資料館の館長さんに聞いてみた。
バルコニーを作った山添喜三郎は西洋建築を学び日本に帰ってきて洋風と和風を合わせたのがバルコニーである。
明治21年に教育資料館を設立して明治22年に旧登米警察署を設立してどちらも二階にバルコニーがあった。
■山添喜三郎
山添喜三郎はウィーン万国博覧会という、世界の色々な物が集まっていて、その中に山添喜三郎が日本から派遣されていて、日本初万国博覧会に参加しました。
明治9年アメリカ万国博覧会で出品しそのままアメリカで洋風建築を学びました。
■教育資料館のバルコニーは日本初だったかもしれない
教育資料館のバルコニーは、実は日本で初めて作ったバルコニーかもしれないと言っていました。

投稿者 koriyama : 10:28 | コメント (5)

No.432「昔の裁判所は、判事が一人だった。」

■裁判官とは
裁判官とは、判決を決める人で本当は裁判官一人ではなく、判事達と話し合い、公平になるように、判決を決める。
だが、区裁判所は裁判官が一人で判決もひとりでやっていた。
■当時の司法制度こうだった。
大体4つの裁判所に分かれている。
これでも分かるように区裁判所は、一番下だった。
これは、明治23年司法制度(裁判所、構成法による)
■どんな区裁判所だったか
明治23年ごろから、今の水沢県庁記念館に、区裁判所という裁判所が出来た。
区裁判所は、一番下の裁判所で、境界争いや、未納金のさいそくなどの裁判をしており、市民に一番身近な裁判所だった。
区裁判所は今の簡易裁判所にあたる。
■昔は裁判が公平ではないときもあった。
判決を一人で決まるため、有罪か無罪か微妙なときは、その人の考え方で、左右されてた。
判決が左右されるなんて、今では考えられないと、思った。
でも、判事が一人なのは、区裁判所だけで、大審院は、判事が7人で合議制だった。

投稿者 koriyama : 10:27 | コメント (8)

No.431「昔の教科書は全学年6冊だった。」

■昔の人々について、
昔は、お金がなくて2人で1冊だった。
むかしの子供たち浴衣を着ていたらしい。
■今の教科書について
今の教科書は、一学年と二学年は国語、算数、生活科、音楽、書写、図工、体育などです。
三、四、五、六学年は、国語、算数、理科、社会、体育、家庭科、図工、書写、音楽などがあった。
■昔の教科書について
昔の教科書は、一学年と二学年は国語、算数、生活科、音楽、書写、図工です。
三学年と四学年と五学年と六学年は、国語、算数、理科、社会、音楽、書写です。
昔はカタカナが多かった。
■昔の教科書は全学年6冊だった。
昔の教科書は、本当に6冊だった。
昔から今まで全然変わらなかった。体育や家庭科が増えただけです。

投稿者 koriyama : 10:27 | コメント (6)

No.430「明治時代の教室には照明の施設がなかった。」


■明治時代の学校について
教育資料館は明治21年に建てられた洋風学校建築を代表する建物である。
洋風にしたのは一部で、いろんな様式のいい点をとりいれた学校である。
この学校の建築費は3500円で、総事業費は5874円である。
この学校をつくり終わるまでにかかった時間は、506日である。
■教室内の主な様子
明治時代の学校は狭く、机がつながっていた。
明治時代の学校の教室には照明の施設がなかった。
教室にはほとんどがカタカナで書いてある国語の教科書があった。
教室には現代の教室にも置いてあるピアノがある。
■照明の施設がなくて困ったことは
照明の施設がないので天気が悪く、暗い日などは教室内が暗く、授業をするのが大変だった。
天気が良い日は外からの光が入ってくるのでそれなりに見えた。
天気が悪い日は、教室内が暗いので、子供達は教室内で遊びにくかった。
ピアノなどを弾くときは教室内が暗いので大変だった。
■明治時代の生活は照明をはじめは現代の生徒よりも大変だった。
現代の教科書はひらながや漢字などで使い分けているので見やすいが、明治時代の教科書はほとんどがカタカナで書いてあるので読みにくいと思った。
登米の小・中学校は昭和39年1月まで完全給食ではなかったので、それまでは大変だと思った。

投稿者 koriyama : 10:26 | コメント (7)

No.429「登米警察署は、山添喜三郎が建設した。」


■登米警察署
明治22年に建てられ昭和43年まで登米警察署として使われた。
洋風をとりいれた木造二階建て。
外壁は板張りにペンキぬり、屋根は寄棟ずくり、桟瓦西葺き。
■警察署の建設
明治22年に建てられ昭和43年まで使われた。
明治中期の擬洋風建築として極めて珍しく貴重な文化遺産であり、警察署と教育資料館いがいは、解体撤去され建築家山添の記念碑ともいえるものである。
昭和63年に現在の姿に復元された。
■山添喜三郎とは?
1843年に生まれ31歳の時、松尾伊兵衛と、ともにウイーン博覧会の日本館造営を命ぜられ、渡欧。
帰国後農商務少の役人となり建築の指導に当たっていたが、
山添は、登米警察署のほかに佐沼小学校、飯野川学校、旧登米高等尋常小学校(今の教育資料館)
■山添喜三郎エピソード
屋根に使う瓦は、一枚一枚重さをはかり、これを一夜水につけて翌日又重さを計って吸水量を調べ、一定以上の量目の瓦はすべて不合格としてハネたといわれ、そのため納入瓦屋は次々と倒産した。
工事も、洋風建築洋式が多く、工法になれていない大工の苦労もなみたいていではなかった。

投稿者 koriyama : 10:25 | コメント (7)

No.428「教育資料館の一部の窓ガラスは再現したわけではなく、当時からゆがんでいる」


■ガラスについて調べて見た
一般的な窓ガラスは珪砂は70%以上+石灰石+ソーダ灰などを溶かして固めたものである。
教育資料館の二階の再現教室の窓ガラスがゆがんでいた。
■窓ガラスがゆがんでいる理由は
ゆがんでいる理由は特になく、当時は窓ガラスはゆがんでいるものしかなかった。
百年以上も前に建てられ様々な地震や洪水にあっても少しの狂いも見られないくらい頑丈です。
ちなみに再現教室の窓ガラスは大正時代のものです。
■今と昔の窓ガラスの長所・短所
今の窓ガラスの長所は少しの衝撃では割れないで今の窓ガラスの短所はガラスの破片が鋭く危ない。
昔の窓ガラスの長所は採光が十分入るところで昔の窓ガラスの短所はガラスを通して物が見えない。
■ゆがんでいる窓ガラスは特に意味はなかった
ゆがんでいた窓ガラスは教育資料館の二階の再現教室にあった。
当時は窓ガラスはゆがんでいるものしかなかった。
明治時代から使っていた窓ガラスが一回も割れていないなんて驚きだった。
これからも窓ガラスを大切に使ってほしいと思った。

投稿者 koriyama : 10:24 | コメント (5)

No.427「臭い飯の語源は牢屋に関係ある。」

■旧登山警察署について調べてみた
登山の警察署は昭和43年からつかわないようになった。
使わなくなった理由は狭く古くなり機能的ではなかったから。
当時の警察署は、消防の仕事も警察の仕事の一つだった。
■牢屋の中
当時この牢屋は独房ではなく雑居房だった。
コレが牢屋の写真
牢屋の中には5.6人が一緒にはいっていた。
■牢屋について
昔は、鉄筋もコンクリートも無い時代だったから木しか調達できなくて牢屋は木造だった。
部屋には何にも無くてトイレがあるだけだった
脱走しないために外はレンガを使っていたがそれでも脱走する人はいた。
トイレはただの四角い石に穴があいてるだけだった。
■臭い飯の語源は・・・・・
昔は、トイレの臭いがきつくそのトイレの臭いをかぎながらご飯を食べていたので、牢屋で食べる飯を「臭い飯」と言うようになった。

投稿者 koriyama : 10:23 | コメント (5)

No.426「昔の学校にはノートがなかった。」


■昔のノートは何か調べてみた
「ノート」とは、黒板に書いてあるのを写したり、計算したりするもので、今では欠かせない学習用具だ
だが昔は、ノートなんて物はなかった。」
そのかわり「石盤」というのがあった。
「石盤」は地域でとれた「ゲンジョウ石」できている。
■「石盤」とはどんな物か?
昔の学校には、教科書はあるが、「ノート」は見当たらない。
机の上には、長方形の小さい黒板みたいな物がおいてある。
これが当時の、「ノート」変わりの「石盤」!ちなみに色は緑でした。
昔のノートは、黒板みたいなものでチョーク代わりに石筆が使われていました。チョーク代わりなので今で言えば黒板消しみたいな物で書いたものを消していたと思います。
■「石盤」の評判は?
昔の人達のころは「ノート」なんてものがなかったので、書く物があるだけよかったと思う。
今のノートは引っ張ったりするとやぶれるが、昔のノートは石でできているのでとてもがんじょうだった。
■「石盤」はかかせない学習用具だった。
「石盤」は、登米の教育資料館の中の「再現教室」にあった。
今とはちがい、昔らしさのある教室で、とてもなごみやすい。
今の人は、昔使われた「石盤」などを見ると、「こんなの使ってたの」などと思うが、昔は、とてもかかせない学習用具だった。

投稿者 koriyama : 10:23 | コメント (9)

No.425「登米では明治9年の小学校では生徒477人にたいし教員7名だった。」


■こうして授業をやっていた。
当時の教科書は文字がカタカナだった。
教科伝習所をつくり、教員を養成してそして代理の教員として授業をやっていた。
■昔は・・・・・
当時477人という数は、裕福な家庭が多かったから。
当時、小学校建設に多額の資金をかけていた。
登米の小・中学校が完全給食になったのは昭和39年1月からだった。
開校当時は、生徒300人余りだった。
■教育について・・・
明治22年には町の予算48%を教育にかけていた。
当時の授業は読書・作文・習字・算術などだった。
当時は、教育にかける熱意・意識が高かった。
明治31年(1888)には、なんと!!1000人を超えていた。
■登米では明治9年の小学校では生徒477人にたいし教員7名だった。
当時は、ちゃんと資格を持っていた教員は7名だった、だがその人数ではたりなかったため教育伝習所などからようせいをえて代理の教員として授業などをやっていた。
今と変わらないことは、教育にかける熱意などは今と同じだった。
そして子供にいろんなことを学んでほしいという気持ちも感じられる。

投稿者 koriyama : 10:22 | コメント (4)

No.424「春蘭亭が造られた年は、分からない。」


■春蘭亭とは・・・
春蘭亭とは、登米伊達初代藩主相模宗直公が慶長9年(1604年)岩手県水沢城から登米に移るに伴って、移住した鈴木家の屋敷である。
春蘭亭のある武家屋敷通りと呼ばれる通りには約10ほどの武家屋敷があるが(門だけのところあり)春蘭亭はその中でも一般公開されている唯一の屋敷である。
■資料には・・・
資料には、「建創年代は、不詳である。」と書いてある。」
登米のパンフレットには江戸中期以後に鈴木氏が移り住んだ」とかかれてはいるが詳しい年は、書かれていない。
春蘭亭は登米の武家屋敷の一般形式とは、異なって「直ご家形式」というものになっている「直ご家形式」とは、書院座敷を直接本屋の上手に取り込んだものである。
■春蘭亭の今
春蘭亭は、平成元年に鈴木氏が町に寄付され、囲炉裏を囲んだ喫茶コーナーを設けて平成2年に今の形になりオープンした。
春蘭亭には、当時の柱がそのまま残されているものもある。
春蘭亭では、春に茶会も開かれる。
■造られた年は分からなくても春蘭亭は昔の姿を今に残す素晴らしい武家屋敷だった
春蘭亭が造られた年は不詳であると資料に書かれていて造られた年は、分からない。
ちなみに、春蘭亭という名は、この地に自生する春蘭を使って春蘭茶を提供することから名づけられた。

投稿者 koriyama : 10:21 | コメント (5)

No.423「仕事は完成したが借金が残った大工がいる!」


■借金が残った大工とは!?
工事も洋風建築が多く、工夫になれていない大工の苦労もなみたいていではなかった。
そのため予想以上に手間ひまがかかり、工事請負をした大工棟梁は家財を売り払っても借財が残ってしまったからだった。
その他、工事の厳しさから山添に恨みを抱く者がおり、検査のため屋根にあがったところ、梯子をはずされて昼食になっても、夕方になっても下に降りられなくされたとか。或は恨みを抱く業者から、あるとき川の中〔或は堀の中〕へ人力車もろともにほうりこまれたこともあった。
■建築家の1人、山添喜三郎について!
山添喜三郎とは明治5年29才の時にウィーンで開かれた万国博覧会に日本家屋建築し、好評をえるなど、若いうちからすぐれた才能を発揮した建築家である。
登米に今も残っている、洋風建築の代表作が残っている。
■山添喜三郎について!
建築家山添喜三郎は、天保14年9月15日に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたとされている。大工として建築を志し、腕も相当なものであったらしく、明治5年〔1872〕にオーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に大工棟梁として政府から出張を命じられ、時の「政府御雇い外国人」であるゴドフリード・ワグネルに従ってウィーンに行き、会場に日本家屋を建築し、多くの外国人の目を見張らせるとともに日本の芸術文化の素晴らしさを認識させたといわれる。
■山添喜三郎についての数々のエピソード
単に彼の仕事ぶりを非難するものではなく、彼が職務に忠実であり、校舎建築の重さをよく自覚して、後世に残る立派な建物を造ることにいかに専念したかを伝えるもので、むしろ当然の請負業者や職人に理解されなかった事から起きたトラブルであった。
現在町民はむしろこのような彼の妥協を許さない態度によって、はじめて今日まで残る堅牢優美な校舎が出来たものであるとして敬意と感謝を込めて語り継がれているものである。

投稿者 koriyama : 10:20 | コメント (7)

No.422「登米は、明治9年に県内最大の小学生がいた。」


■登米に詳しい人はこう語る。
登米の就学率は高かった。
義務教育ではなかったのに県内最大の477人を記録した。また、明治21年(1888年)生徒の増加により水沢県庁にあった小学校からこの尋常小学校ができた。
尋常小学校ができるまえは水沢県庁で勉強していた。
■町や親が予算の48%を教育にかけた。また、足りない分は他にも国庫からも補助金を得ていた。
熱意や意識の高さがあったからこのような記録をだした。また、多くの家庭は裕福な生活だった。このような意識や熱意で生徒が増大し最初に勉強していた水沢県庁ではなく尋常小学校ができた。
■県内最大の小学生がいた登米は教育にかける熱意はすごかった。
明治9年に県内最大の生徒を記録したことは親の教育にかける熱意があったから。また、尋常小学校ができ、1000人もこえることがあった。
教育のために多額のお金をかけ町や親の予算の48%を教育にかけ、国庫からも補助金を渡し、みんなの協力があったからできた記録だ。
また、今の親も昔の親も教育の勉強について同じ考えだ。
■県内最大の小学生がいた登米は教育熱心だった。
この時代、多くの家庭は裕福な生活が多かった。
登米が県内最大の小学生を記録した明治9年(1876年)は多額の資金を教育にかけ、また、町や親も教育に48%をかけた。
実はほかにも国庫からも補助金を得ていた。

投稿者 koriyama : 10:19 | コメント (7)

No.421「山添喜三郎は屋根に取り残されたことがある。」


■山添喜三郎について調べてみた
山添喜三郎とは明治5年29才の時にウイーンで開かれた万国博覧会に日本の建築を出品て好評をえるなど、若いうちからすぐれた才能を発揮した建築家である。
登米町に現在も残る、洋風の建築の代表作は「登米高等尋常小学校」や
「登米警察署」などです。
■山添喜三郎はこうして屋根に取り残された
工事の厳しさから山添喜三郎に恨みを抱く者がいて、検査のために上ったところ、梯子をはずされて昼食になっても、夕方になっても下に降りられなくなった。
他にも恨みを抱く業者から、ある時川の中へ人力車もろともほうり込まれたこともあったという。
■その他のエピソードは
山添喜三郎には、この2つだけではなくいろいろなエピソードが伝えられている。
瓦の吸水量のことで瓦屋が倒産したというエピソード
建築材料である木材も検査が厳重でそのため木材供給業者は家産をかたむけたというエピソード
■屋根に取り残された山添喜三郎はとても熱心な建築家だった
山添喜三郎は屋根に取り残されるほど、とても仕事に熱心だった。
このエピソードは山添喜三郎の妥協を許さない態度によって、はじめて今日まで残るすばらしい建築物が出来たものであるとして敬意と感謝を込めて語り継がれているエピソードである。
このトリビアをつくって山添喜三郎がとても熱心な建築家であることが分かってよかった。

投稿者 koriyama : 10:18 | コメント (5)

No. 420「学校の建築は洋風だった。」


■尋常小学校の資科で調べてみた
明治21年10月に木造2階建でコの字型である。
学校は明治の洋風学校を代表する建物である。56年に重要文化に指定さられた。
■学校の資料で調べてみた。
学校は監督はウィーン万国博監会に日本から派遣されて日本建築を広く外国におしえた。
洋風建築を取得した宮城県・山添喜三朗によります。
■学校の資料で調べてみた。
学校の評判は登米の人達は教育に対してお金を48%を教育にかけていたのでいい評判でした。
学校は登米のシンボル的存在で登米の人達は学校を大事にしていたの今も大事にされています。
■尋常小学校をごらんください
明治21年10月に尋常小学校が完成した。

投稿者 koriyama : 10:17 | コメント (3)

No.419「明治時代の小学校は男子が圧倒的に多かった。」

■登米小学校の場合
明治9年の頃の登米小学校は全校477名で県内最大だった。
男子394名、女子83名と男子がとてもおおかった。
その後は1000名を超えることもあった。
生徒数477名に比べ教員7名ととても少なかった。
■ちなみに当時仙台では
上谷刈小学校 教員2人 生徒92人中 男子90人女子2人。
小泉小学校 教員2人 生徒144人中 男子134人女子10人。
立町小学校 教員3人 生徒455人中 男子259人女子196人。
■ちなみに当時仙北地方のある村では
三高野小学校 教員3名 生徒104人中 男子99人女子5人。
八幡小学校 教員2名 生徒99人中 男子91人女子8人。
田尻小学校 教員2名 生徒106人中 男子78人女子28人。
・・・と圧倒的に男子が多かった。
■やはり明治時代の小学校は男子が圧倒的に多かった。
この頃は、みんな貧しかったため、親の業務を助けるために、昔は学校に入る人が少なかった。
特に女子は、家事手伝いだけでなく、学校に入るにはいろいろお金がかかるため、親の負担を少しでもすくなくするように学校に入らなかった。
昔の女の子は家のことも考えていて偉いと思った。

投稿者 koriyama : 10:16 | コメント (4)

No.418「旧登米警察署と旧登米高等尋常小学校は兄弟である。」


■旧登米警察署について調べてみた
明治21年に建てられ昭和43年まで登米警察署として使われていた。
登米警察署は巧みに洋風建築を取り入れている建築物である。
現在はパトカーや白バイ、制服、装備等が展示してある日本唯一の警察資料館である。
■旧登米高等尋常小学校について調べてみた
明治22(1888)年に建てられ昭和54年新校舎落成とともにその役割を終えたがその後仮校舎としてつかわれ昭和62年から保存修理を行い平成元年に教育資料館として一般に公開されている。
尋常小学校は明治中期の地方文化の結晶。
■なぜ兄弟か調べてみた
警察署、小学校ともに設計した人が山添喜三郎という人物で完成した年が1年しか違わないからです。
どちらも洋風建築を取り入れた建築物です。
特徴的なのがどちらも二階に吹き抜けのバルコニーがあるからです。
■山添喜三郎が警察署と小学校を建てた
警察署、小学校を設計した山添喜三郎という人物はウィーン万国博覧会に日本から派遣された人物である

投稿者 koriyama : 10:16 | コメント (5)

No. 417「明治時代の尋常小学校は、県内最大の小学生がいた。」

■登米に詳しい人は、こう語る
義務教育ではなかったのに、児童数が477人もいて県内最大の人数だった。
登米の就学率が高かった
■登米の人は、教育熱心
町の親は、小学校建設に多額の資金のかけた。明治22年には、町の予算の、48パーセントを教育にかけた。親や町の人は、子供たちの教育にかける熱意、意識が、高かった。
■昔の人は、経済的に裕福な家庭が多かった。
たくさんの協力
明治9年に県内最大の生徒を記録した事は
親の教育にかける熱意、意識がすごかったから。
教育のために、多額の資金をかけ町の48パーセントの予算を、教育にかけ、皆の協力があったから出来た事だった。
■今の親と昔の親の気持ち
今の親も、昔の親も、子供に勉強もそうだけど何事もがんばってほしいという気持ちは、同じだった。

投稿者 koriyama : 10:15 | コメント (11)

No.416「昔の留置所は中が質素。」

■警察関係の資料で調べてみた。
牢屋の鉄格子の、部分は昔は木だった。
鍵も無く、木で抑えるだけだった。
■それは、厳重だったのか?
昔は、脱獄する人は、まれにしか、いなっかたそうです。
凶悪犯は、木ではなく、鉄で、出来ていたそうです。
■木は腐らなかったのか?
やっぱり、腐ったそうです。
木は5年~6年ぐらいで、取り替えるそうです。
■実際にごらんください
牢屋の中は、トイレと布団しかない。

投稿者 koriyama : 10:13 | コメント (5)

No. 1415明治時代にはノ一トがなく洋風な建築なのか


■明治にノ一トがあつたのか調べてみた
調べてみるとたしかにノ一トがなかった、ノ‐ト
の代わりに、黒板を小さくした物で、書いていた。
■教育資料館は、洋風だった。
それは、現代と、ちがってコンリ一トがなくあるとしても木材しかなかったので極力地元にある資村を使っているためコンクリ一トのものがないことがわかった。教育資料館は、木造にかいだて屋根は、寄棟造り棧瓦葺き凹形で中央に吹き抜け式玄関が突き出し、その柱には、ギリシャ建築様式のアイニックオーダーを簡略化した柱頭で飾り教室の前面に吹き抜けの廊下を配した質素堅牢な造明治の

投稿者 koriyama : 10:12 | コメント (6)

No.414「明治9年には2人で1つの教科書を使っていた。」


■今の教科書について
今の教科書は、主に、ひらがなとカタカナと漢字で書かれている。
今はふつう1人で1つの教科書を使っている。
今は義務教育で、教科書で税金で払っている。
■明治9年の様子
就学率が高く、義務教育でなかったのに登米尋常小学校では、477人と県内最大だった。
小学校建設に多額の資金をかけた。
経済的に裕福な家庭が多かったと思われる。
■昔の教科書について
昔の教科書は、字が大きかった。
昔の教科書は、主に、漢字とカタカナと絵が書かれていた。
江戸時代の往来物の類やアメリカの翻訳書などが混用された。
明治9年に2人で1つの教科書を使っていたのは冊数不足とお金の問題だった
■教科書が、子供の数分なかったからだと思われる。
教科書を買うお金がなかったからだとも考えられる。
昔は2人で1つの教科書を使っていて不便だっただろうなぁ、と思った。

投稿者 koriyama : 10:12 | コメント (7)

No. 413「山添喜三郎の建築人生は和と洋のミックスだった


■建築家の山添喜三郎
新潟県巻町「角見浜」出身
東京に出て建築を勉強
日本で初めて万国博覧「ウィーン」に参加
日本建築を建てることになり、れんちく選ばれる
■洋風建築への道
洋風建築を勉強
明治9年アメリカ建国記念万博で出品しアメリカの建築を勉強
■帰国後紡績場を全国転々として建てる
仙台では、三居沢に紡績工場とその動力源の発電所を建てる
宮城県に迎られる
建築技手として迎られる
現在残っている建物は登米高等尋常小学校「代表作」
登米警察資料館
金童景閣「仙台芝庭」
■山添喜三郎の人生は和と洋のミックスだった
現在、見学に行くと説明がちがうが年配の人に聞くと話てくれる
登米高等尋常小学校と警察資料館は和洋折衷
仙台に娘が二人いる
和洋折衷は山添喜三郎が考えた
明治21年10月に尋常小学校が完成した

投稿者 koriyama : 10:11 | コメント (6)

No.412「教育資料館」


■木造二階建て、屋根は寄棟造り葺凹型中央の吹き抜け式玄関ある
その玄関の柱はギリシャ建築アイオニックオーダーを簡略化した柱頭で飾りである教室の前

投稿者 koriyama : 10:10 | コメント (6)

No.411「明治時代はノートがなくてミニ黒板をノートにしていた。」


■旧登米小学校について
小学校は、明治21年10月に造られた。
2階には、バルコニーがある。
洋風建築学校の代表。
女子より男子の方が人数が多い。
教科書は2人で一冊使っていた。
■実際に2階の再現教室に行ってみた
今とはぜんぜん違い、教室の物ほとんどが木でできていた。
明治時代にもオルガンがあった。
教科書はカタカナと漢字で書かれてた。
私服は着物だった。
■そのころは鉛筆もノートもなかった
明治時代は鉛筆もノートもなく、石板と言うものにメモをしていた。
鉛筆もなかったため、チョークのようなもので石板にメモをとっていた。
石板は、A4くらいの大きさだった。
■明治時代はノートも鉛筆もないすごい時代だった。
今とはぜんぜん違い、教科書も2人で1冊使っていた。
今はノートがあるからまた新しいページに書くことができるけど石板は新しいページがないからどのようにしていたんだろうと思いました。

投稿者 koriyama : 10:09 | コメント (6)

No.410「トヨマの語源は、アイヌ語だという」

■トヨマの語源について調べてみた
トヨマとは、宮城県登米郡登米町のことである。
登米の語源とする言葉は複数ある
登米語源される言葉は「遠山」や「トイオマイ」などとされている
■言語学者の方はこう語る
「トヨマ」は、アイヌ語の「トイオマイ」という言葉が訛ったものだと考えられる
「トイオマイ」とは、アイヌ語で「食べられる土のあるところ」という意味がある
2つの言葉の発音も似ているため語源になる可能性もある
■遠山が語源
登米の由来は「遠山」の可能性が非常に高いと思われる。
昔、登米の地方を遠山村と言うふうに呼んでいたらしい。
「遠い山」と言う言葉が「遠山」になって「登米」という町の名前になった
■明治時代に舟運の町として栄えた、登米の名前の由来は、複数あった
登米町は、明治時代に舟運の町として栄えた町である。登米には明治時代に建てられた洋風建築の建物が複数ある。
登米は時代がたつにつれ人口が減り静かな町となった。登米は町おこしのため観光地化された。
来年4月から周辺の町が合併して「登米市」になる。

投稿者 koriyama : 10:08 | コメント (7)

No.409「明治時代の、昔の刑は、背中をムチで叩いたりした。」


■資料館の二階で実際に調べでみた
両手を押さえられてムチで叩かれてる絵もあった。
絵に描いてあった。
■登米警察資料館とは?
昔の事が色々分かるところ
昭和63年、県の重要文化財に指定されました。
■牢屋もあったので入ってみた
牢屋の中のはじっこにトイレがあった。
牢屋は一人部屋じゃなくて大勢でいた。
中は狭かった。
■昔の刑は背中を叩くと言う信じられない刑だった。
馬に踏みつぶされる刑があった。
今ではありえない事が書いてあった。
分からなかった事が分かって良かったです。

投稿者 koriyama : 10:04 | コメント (11)

No.408「旧登米尋常高等小学校と旧登米警察署の玄関とバルコニーは同じ造り。」


■旧登米尋常高等小学校とは
旧登米尋常高等小学校は、宮城県登米町にある国指定重要文化財で、現在は、教育資料館になっている。
学校の造りは「堅牢・質素」というきまりがあった。
屋根の中央部に四・六・八角形の塔屋がある。
校舎は、木造二階建て、コの字型。
中央正面には、白いバルコニーのついた玄関がある。
■旧登米警察署とは
旧登米警察署は、宮城県登米町にある宮城県指定文化財で、現在は、警察資料館になっている。
洋風の警察署庁舎としては県内唯一。
寄棟造りで瓦葺きになっている。
二階にはバルコニーがあり、当時の人々からは「遠見台」といわれていた。
■小学校と警察署を設計したのは山添喜三郎という人物だった。
もともとは大工だった。
宮城県建築技手だった。
後に技師となった。
ウィーン万榑から日本館建設のため渡欧し、帰国した。
旧登米尋常小学校と旧登米警察署を建設した。
旧登米尋常小学校と旧登米警察署は、同じ人物が設計した疑洋風建築だった。
■旧尋常高等小学校では、玄関とバルコニーはシンボルだった。
旧登米警察署のバルコニーは、当時の人々から親しまれていた。
この二つの建物の設計者は山添喜三郎。
山添喜三郎は、構造は和風で洋風の利点を取り入れて設計していた。
バルコニーが造られた理由は、眺めがいいということや、洋風っぽく見せるためなどいろいろあった

投稿者 koriyama : 10:03 | コメント (2)

No.407「警察資料館の留置所は、レンガ造り。」


■登米町警察資料館とは
21年に金成警察署登米分署から昇格。
昇格に伴って庁舎新築に着工し翌明治22年に落成しました。
明治の洋風事務所建築としては極めて珍しいもので昭和63年県の重要文化財に指定された。
本庁舎と併せて留置場を再現し、全国でも珍しい明治の留置場が付設されました。
■実際に留置所に入ってみた
中は、以外と広い。
この留置場は、独房ではなく雑居房だった。
トイレは、一番隅にあった。
ふとんは、わらで出来ていて薄かった。
■さすがに外はレンガだった
中は木だが、外はレンガで固められて、逃げられないようになっていた。
だが、逃げるひとも何人かいたそうです。
■旧登米警察署は、留置所のあるレンガ造りの白いペンキで塗られたおしゃれな建物だった。
警察署全体がレンガ造りだった。
外側は、白いペンキで塗られていた。
階段が急だった。

投稿者 koriyama : 10:02 | コメント (3)

No.406「明治登米の学校建築は欧米の建築様式を取り入れている。」


■実際に教育資料館に行って調べてみた。
旧尋常小学校は現在教育資料館になっている。
洋風建築が盛んに発展し洋風小学校たくさん建てられていたから。
学校なのにバルコニーがある。
その登米の学校は重要文化財になっている。
確かに欧米の建築様式だった。
■実際の写真をご覧ください。
■どうやって取り入れたのか
登米の隣にある町の学校も洋風建築だった。
生徒の親も多額の資金を出したのでこのような立派な学校が建った。
とくに登米の住民は教育熱心だった。
■登米洋風学校は住民など人も協力した素晴らしい学校だった。
登米洋風小学校(尋常小学校)は明治21年に建てられた。
当時は余りお金もそれほど無かったため住民達に協力してもらった。
洋風建築になったのは当時設計者が欧米の建築様式を取り入れたから。
学校が建ったあと大勢の子供たちが入学した。

投稿者 koriyama : 10:01 | コメント (5)

No.405「警察資料館の留置所は、レンガ造りだった。」


■登米町警察資料館とは
旧登米警察署庁舎は、明治21年に金成警察署登米分署から登米警察署に昇格したのに伴い、庁舎新築に着工し、翌明治22年に落成しました。
明治の洋風事務所建築としては極めて珍しいもので昭和63年県の重要文化財に指定されました。
木造2階建て下見板張り白ペンキ塗り寄棟の瓦葺きで突き出した玄関は、上下とも吹き抜けで2階部分はバルコニーとなっております。
■留置場に実際に入ってみた
中は思っていたのりも結構広かった。
トイレははじっこの方に石みたいなものに穴があいてあった。
ふとんはわらで出来ていて薄かった。
この留置所は、独房ではなく雑居房だった。
中には結構な人数が入れる広さだった。
1つだけ小さな窓みたいなものが上の方にあった。
■さすがに外はレンガだった
中は木で出来ていて周り(外)はレンガで固められて、逃げられないようになっていた。
しかし、逃げる人も何人か居たそうだ。
■登米警察資料館は昔の留置場のあるすごい警察資料館だった。
警察署全体がレンガで囲まれていた。
レンガの上から白いペンキで塗られていた。
入って右側には白バイが2台、パトカーが1台が展示されていた。
本当の留置場が2つもあった。
2階には制服(男子用と女子用)が展示されてた。

投稿者 koriyama : 09:58 | コメント (2)

No.404「山添喜三朗に納入した瓦屋はすべて倒産した。」

■山添喜三朗とは
1843年9月15日、新潟県西浦原郡角海浜村に生まれた。
大工として建築を志し、腕も相当なものであった。
明治5年にオーストラリアのウィーンで開催された万国博覧会に大工棟梁として政府から出張を命じられ、時の「政府御雇い外国人」であるゴドリフリード・クグネルに従ってウィーンに行き、会場に日本屋敷を建築し、多くの外国人の目を見張らせるとともに日本の芸術文化の素晴らしさを認識させたといわれる。
■なぜ瓦屋が倒産したのか
山添喜三郎は仕事に極めて忠実で、その結果、工事に対してはずいぶん厳しかった。
そのため、屋根に使う瓦は1枚1枚重さを測り、これを一夜水に漬けて、翌日又重さを測って吸水量を調べ、一定以上の量目の瓦は全て不合格としてはねられたといわれる。
納入する瓦屋は次々と倒産したと伝えられている。
■山添喜三郎の数々のエピソード
山添喜三郎についてのエピソードは、単に彼の仕事ぶりを非難するものではなく、彼が職務に忠実であり、校舎建築の責任を重さを自覚して、いかに立派な建物を残すかに専念していたかが伝えられている。
山添喜三郎のエピソードはその頃の請負業者や職人が彼の仕事の意味を理解しなかったことから起きたトラブルだった。
■山添喜三郎ある意味凄い人だった
工事の厳しさから山添に恨みを抱く者もおり、検査のため屋根に上ったところ、梯子を外されて昼食になっても、夕方になっても下に降りられなくなったこともあった。
山添は大正12年3月16日に永眠した。享年81歳とあり、仙台市東十番丁天神下にある栄明寺に葬られている。
山添が設計した小学校は今でも災害にも耐え、教育資料館として、当時の姿を見ることができる。

投稿者 koriyama : 09:56 | コメント (4)

No.403「477人中83人しか女子がいない学校がある」

■明治の登米小学校について
登米第一番小学校とは明治9年以降はじまった小学校である。
小学校になる前は水沢県庁舎として使われその後、治安裁判所や老人福祉センターとして使われました。
小学校の名前が明治9年5月「仮校舎養雲寺」になり、その年の11月「凌雲小学校」になり、明治12年1月に「登米小学校」となりその後も何回か名前が変わっていきました。
■生徒数について
当時の生徒数は477人で、男子394人、女子83人で、女子が大変少なかった。
477人の生徒数に比べ、教員の人数は7人でした。
参考として、宮城県の小学校では、教員2人・男子531人・女子95人・合計626人の学校もありました。
■義務教育について
義務教育ではなかった当時、生徒数は477人と県内最大だった。
なぜかというと、建設に多額の資金をかけたり、教育にかける熱意・意識が高い家庭が多かったので、県内最大になったと思われる。
当時の小学校ではおもに、読書・作文・習字・算術などの勉強をしていました。今と比べると大分ちがっている。
■女子が少なかった理由
女子がすくなかったのは、家事の手伝いのためでもあるが、学校に入るのにお金がかかるため、親に負担をかけさせないように学校に入らなかった。
しかし、83人と少なかった女子は、明治18年2月に「裁縫科」を設け、女子生徒は増加していったということである。

投稿者 koriyama : 09:55 | コメント (7)

No.402「明治9年から教科書が1人で一冊つかえるようになった」

■明治9年の登米の様子について調べてみた
登米の小学校は生徒数が県内最大だった。
当時はまだ義務教育ではなかったが、教育に対する熱意の高さや経済的に裕福な家庭が多かった。
■教科書を見ている様子
教育資料館に展示されていた写真を見ると、昭和57年はまだ1冊の教科書を2人見ていた。
明治9年の写真を見ると今のように1人で一冊つかっていた。
■教科書や当時の勉強の様子
教科書はほとんどがカタカナでかいてあり、カラーのページがなく、今とは厚さや、大きさが全然ちがっていた。
当時も教室にはオルガンがあったが、服装は着物だった。
机には勉強道具を入れるスペースがあった。
■明治9年から教科書が一人で使えるようになった
当時勉強していた科目は、習字、単語、会話、読本、文法、算術、物理、唱歌である。
明治8年までは教科書を2人で一冊つかっていた。

投稿者 koriyama : 09:52 | コメント (7)

No.401「昔の教室には、照明器具がなかった。」

■昔の教室を再現した写真を見てみた。
ほとんどが木造建築で、とてもシンプルなものだった。
机は、長くつながっていて、2人で1つ使っていた。
確かに照明らしきものは、見当たらない。
■実際の写真をご覧ください。
当時にしては、高価だったガラス窓を使っていた。
そのガラス窓から、太陽の光が差し込んでいた。
■どうやって勉強したのか。
とても薄暗い場所で勉強していが、写真を見ると、眼鏡をかけている人はいなかった。
なので、昔の人は、目が強かったのかなと思われる。
昔では高価だった。ガラス窓にした理由は、お金があるという理由だった。
太陽の光が入るようにという理由もあったのかなと思われる。
昔の子供は、太陽の光を頼りに、熱心に勉強していた。
■昔と言うのは、明治中期くらいのことである。
再現教室を見てみると、天井には照明らしきものはなかった。
曇っている日などは、相当大変だったと思われる。
昔の人はとても我慢強かった。

投稿者 koriyama : 09:51 | コメント (16)

2004年11月22日

No.535「森舞台では結婚式が出来る。」

■森舞台の人はこうかたる
森舞台は平成8年に建てられた。
この時中心となって森舞台を作った人物は、くまけんごろう
森舞台は能が演じられることで有名。
■能とは何か能とは
能は日本の伝統芸能
毎年6月9月に薪能として上演している
登米能という能がある。
■伝統のある森舞台で
なんと結婚式が挙げられる。
そのほかにも登米能というものもある。
■森舞台では本当に結婚式ができた。
森舞台は平成8年に建てられ、その時、中心となって森舞台を作った人は、くまけんごろうという人物葉、森舞台では能が演じられていることで有名。
能とは日本の伝統芸能で森舞台では、毎年6月9月に薪能として演じられている。
しかも森舞台では結婚式が出来る事が分かった。

投稿者 koriyama : 14:16 | コメント (10)

No.534「昔の尋常小学校にはオルガンしかなかった。」

■尋常小学校とは?
明治21年10月に建てられた洋風学校代表の学校です。
校長室は、以外に狭かった。
特徴的な物は、2階の白いバルコニーです。
■学校の様子
音楽室は、机が多くオルガン以外、楽器がない。
なかなか丈夫でズッシリしていた。
鷹の剥製などが、ガラスケースの中にはいつていた。
校庭が、小さかった。
■音楽室の様子
狭いが、30人ほど入れる。
おそらく昔は、歌中心にやっていた。
着物を着た女性が、オルガンを弾いていた。
オルガンは、形がすこしごっかった。
■補足トリビア
昔の学校は、小さいが丈夫だった。
昔、ほとんど木材で、学校が構造されていた。

投稿者 koriyama : 14:15 | コメント (7)

No.533「登米警察署の留置場結構広かった。」

■登米警察署とは
明治22年に落成した。
昭和63年に県の重要文化財に指定された。
木造二階建てで二階部分はバルコニーとなっている。
昭和43年に新庁舎の落成に伴い警察署としての役割を終えた。
■留置場の様子
ドアは小さかった。
鉄ではなく木製でできていた。
中にはトイレがあった。
思ったより結構広かった。
■中に入ると結構広かった
留置場には一人ではなくたくさんの人が入っていた。
天井も結構高かった。
すきまは手が入るくらいの幅があった。
留置場は広かった。
■確かに登米警察署の留置場は広かった
昭和22年に作られた。
警察署にはパトカー、白バイクがあった。
警察署は木造だった。
留置場は広かった。

投稿者 koriyama : 14:14 | コメント (9)

No.532「教育資料館1階の教室にいた男の子が開いていた教科書の物語は・・さるかに合戦。」

■教育資料館と言えば登米高等尋常小学校として使われていたとこだが・・
近くにいたおばさんたちはこう語る。
おばさん2人組みが『あ~なつかし~コレさるかに合戦やね~』・・・
確かに言った・・。
■さるかに合戦はこうして見つかった
おばさんが「これさるかに合戦やね~」といった。
盗み聞きしてから、「そーなんですか~?」と聞いてみると。
「そ~だよ~」と言った・・・。
■昔の教科書はこうだった・・・。
昔はこういった昔ながらの物語が教科書に載っていたらしい・・・。
ちなみに他の子は、違う別のページを開いてました・・・。
■教科書には確かにさるかに合戦が載っていた!!
ページはP13でした。
他の教科書には、かちかち山などの、いろいろな昔話がのっていた。

投稿者 koriyama : 14:13 | コメント (8)

No.531「山添喜三郎は業者に恨まれていた。」

■山添喜三郎とは
山添喜三郎は、1872年にオーストラリアのウィーンにわたった。
日本に「洋風の建築」を広めた人である。
すべての任務をおえたのは、1874年である。
仙台に来たのは、38歳ごろ。
■山添喜三郎はこんな事をした
旧登米高等尋常小学校校舎などを設計した。
今では、「国指定重要文化財」になっている。
ロンドンやイギリスにもわたった。
建築家・技師などの仕事もした。
■業者の恨み
あまりにも仕事に忠実で厳しかったため、業者に検査のために屋根に上がったところ、梯子をはずされた。(昼食になっても、夕方になっても降りてこられなかったと、おもわれる。)
梯子をはずされた以外にも、恨みを抱く業者から、川の中(堀の中)へ人力車もろともほうりこまれたこともある。
■偉大な山添喜三郎でも、恨まれていた
山添喜三郎さんはあまりに仕事に厳しすぎたため、恨まれたと思われる。
仕事に厳しすぎるのも、ほどほどにした方が良いと思う。

投稿者 koriyama : 14:12 | コメント (9)

No.530「蔵の資料館の蔵にはいろんな特徴がある。」

■蔵とは
今から165年前の天保4年<1833年>に味噌・醤油の造業として創業しました。
約85年間、手を加えられず昔のままの姿を現在にとどめています。
味噌・醤油業界では宮城県でも最古の歴史を誇っています。
蔵は明治41年まで清酒「君が代」を造っていた酒蔵です。
■蔵の資料館の商品
蔵の資料館の商品は他のお店には売っていない。
醤油とかで作ったおかしがありました。その、おかしを試食させてくれました。そのおかしは、おいしかったです。
■蔵の特徴は
蔵の温度の変化が少ない。
火事になりにくい。
保存性がたかい
蔵の中の温度は夏がすずしくて、冬があたたかい。
■蔵の資料館は昔から作り続けている
このような作りになったのは蔵の中の温度の変化が少ないからです。
蔵の資料館に食堂があってそこに長いテーブルがたくさんありました。・そのテーブルに100人以上も座れます。
蔵の資料館では、醤油を昔から作り続けられています。

投稿者 koriyama : 14:12 | コメント (9)

No.529「教育資料館は明治の頃の教科書などがあることで有名だが、昭和から平成にかけての教科書も展示されている。」

■そもそも教育資料館とはどんな所か
教育資料館は、明治21年に建てられた洋風学校建築を代表する建物である。
教育資料館は、当時使われた教室や教材などを展示しているところでもある。
■実際に見た人はこう語る
問題の教科書は、教育資料館一階の「再現教室」の向かい側にある部屋で展示されている地元の子供が描いた絵の裏の棚に置いてある。
■研修の前に教育資料館に行ったときの記憶
前、個人的に教育資料館に行ったときは、今回見たような絵は展示されていなく、かわりに昔使われていた黒板のようなノート等と一緒に平成前後の教科書が展示されていた。
そのときは、黒板のようなノートの他に、お手玉等も展示されていて、実際にノートに書けるようにチョ-ク・黒板消しも置かれていた。
■教育資料館には、さまざまな時代の教科書が展示してあった
昭和~平成の頃の教科書の中身は、今とほとんど内容が変わっていなかった。

投稿者 koriyama : 14:11 | コメント (6)

No.528「蔵の資料館の家紋は男と女に分かれている。」

■蔵の資料館の人は、こう語る
この家紋はずっと昔から、男と女に分かれている。
100年以上は、前だった。
家紋が2つあることは、非常に珍しい事。
■家紋の絵柄
女の家紋は、丸の中にクローバーのような絵が書かれていて、男の家紋は、ちょっと女と似ているが、クローバーのまわりに、かざりのようなものがある。
■なぜ家紋が2つ?
家紋がなぜ2つも作られたかというと、昔偉い人に「鎧と家紋をつくりなさい」ということで女と男の家紋がつくられた。
鎧もつくらたれたのだが、この鎧は、戦うためという目的ではなく、ここの家は立派だという象徴でつくられた。
■家紋は、男女に別れており、あの伊達政宗もしょう油をつかっていた。
ここでは、昔からしょうゆがつくられており、いまでは、日本のしょうゆ、みそのトップクラスにはいるほどの、しょうゆ、味噌屋である。
この、しょうゆは、あの伊達政宗もつかっていたといわれる。
今では、3の蔵があり、時々いろんな人をよび、しょうゆをつかった料理を出すそうだ。
家紋は「つくりなさい」といわれ、男・女の家紋をつくった。
そのほかにも、鎧もつくった。
ここから分かることは、ここの家は昔の登米では裕福で、いまでもだが有名なしょうゆ、味噌屋だったことがわかる。

投稿者 koriyama : 14:09 | コメント (9)

No. 527「旧登米高等尋常小学校の校章は宮城の初代領主に関係していた。」

■旧登米高等尋常小学校とは
開校日が明治6年6月18日。
当時の洋風学校建築で正面に向かってこの字型に造られている古い学校である。
六角形を半分に切った形の昇降口(六方)がある。
■旧登米高等尋常小学校の校章は
校章制定日が昭和27年7月21日。
由来登米の初代領主伊達家などの家紋の下地に登米の「登」を意味している。
伊達家の家紋は丸くて縦に3本の線がついた模様である。その家紋の上に「登」がついているのが旧登米高等尋常小学校の校章の形である。
■旧登米高等尋常小学校は今・・・
小学校としては使われてなく、「教育資料館」として使われている。
登米小学校は「教育資料館」の向かい側に建っている。
旧登米高等尋常小学校の校章は「教育資料館」の中に飾ってあった。
■旧登米高等尋常小学校の校章は初代領主の伊達家の家紋と関係していた
開校日が明治6年6月18日。
校章制定日が昭和27年7月21日。
校章の由来は、登米の初代領主伊達家などの家紋の下地に登米の「登」を意味している。
校章の由来は、宮城県のことに関係していた。

投稿者 koriyama : 14:08 | コメント (6)

No.526「水沢県庁記念館の使用目的が変わっていった理由は『空き家になってもったいない』からである。」

■水沢県庁記念館とは・・・?
登米町寺池桜小路1番地にある、町指定の重要文化財。
玄関は堂々たる造りで、『入母屋造』という。
破風は狐格子で純和風だが、付属棟は洋風平屋建。
洋風の意匠の中に和風の手法を取り入れた、日本独自の和洋折衷建築と言える。
■水沢県庁記念館の歴史
明治4年に水沢県庁舎として建てられ、明治5年~8年(庁舎が一関に移される)まで県庁として使用。
小学校や老人センターなどに使用。
明治22年~昭和33年まで治安裁判所として使用。
平成2年に治安裁判所(明治22年頃)の姿に復元し、水沢県庁記念館として公開している。
■水沢県庁記念館の使用目的が変わっていった理由
明治5年~8年までは県庁として使用。
空き家になってもったいないので、小学校や老人センターなどに使用。
明治22年~昭和33年まで、治安裁判所として使用。
■水沢県庁記念館の使用目的が変わっていった理由は、『空き家になってもったいない』という、登米町の人達の思いからである
水沢県庁記念館は、県庁として使われた他に、『空き家になってもったいない』という理由で、使用目的が変わっていった。
隣接して、武家屋敷、春蘭亭、鉤型辻通りがあり、複合施設として明治の面影を伝えてくれる。
水沢県庁記念館の他の建物も、建物を大切にしよう、という登米町の人達の思いがあるのだと思う。

投稿者 koriyama : 14:08 | コメント (5)

No.525「警察資料館は・・・日本唯一の警察資料館として公開されている。」

■実際に行ってみた。
明治22年に建てられた。
昭和43年まで登米警察署として使われた。
昭和63年に現在の姿に復元された。
■他にはこういうモノがあった。
警察官の制服。
白バイク、パトカー。(実際に乗れます。)
留置場。(中に入れます。)
手錠、銃などなど・・・。
■警察資料館の自慢。
明治中期の擬洋風建築。
構造にも、全体の意匠にも、巧みに洋風を取り入れている。
極めて珍しいもので、貴重な文化遺産となっている。
■警察資料館はたしかに日本唯一の警察資料館として公開されていた。
明治22年につくられ、昭和43年まで、登米警察署として使われ、昭和63年に復元された。
文化遺産になったのは、明治中期の擬洋風建築は、とても珍しいからである。
今では、日本唯一の警察資料館として、公開している。

投稿者 koriyama : 14:07 | コメント (3)

No.524「教育資料館の再現教室でさるかに合戦を読んでいる子供の人形がある。」

■実際に見た人はこう語る
本の一説に「ハヤクミヲツケナイトハサミキル」と書いてあったため、蟹が言った台詞だと思われる。
他にもいろいろな本を読んでる生徒がいた。
■本の内容
ちなみに他の子供は違う本を読んでいたが、資料館なので他にもこんな内容があるということを、知ってもらうために違う本に変えたに違いない。
子供の服装もいろいろな種類があるため着せ替えたのだろう・・・。
■教室の様子
子供の様子は女の子が一人で本を立って読んでいた他に男の子が四人、座って読んでいた。
教室の後ろの方にストーブが置いてあった。
教室の前方にはオルガンが置いてあった。
この時代からすでにおいて置いてあった。
■再現教室の子供達はさるかに合戦の本から善悪の判断を学んでいた。
授業でこの本を読んだのは、子供達に善悪の判断を付けさせるためだったに違いない。
さるかに合戦の物語が明治時代からあったということが判明した。

投稿者 koriyama : 14:06 | コメント (6)

No.523「山添喜三郎は県庁職員になったことがある。」

■山添喜三郎さんのプロフィール
1843年、新潟県に生まれる。
明治6年、日本で初めて万国博覧会(ウィーン)に参加した。
現在ある建造物は「旧登米高等尋常小学校」と「旧登米警察署」などである。
■県庁での役職とは
宮城県の建築主任。
明治18年、当時40歳で迎えられた。
■県庁職員に迎えられたきっかけ
明治16年、当時38歳で仙台に来る。
目的は仙台の三居沢に創設される紡績工場の工事監督として招かれた。
仙台の工事を通して、山添さんの手腕力量が高く評価されたからである。
■山添喜三郎さんは県庁職員までなっていた
山添さんは明治18年、当時40歳で県庁職員になった。
県庁での役職は建築主任だった。
迎えられたきかけは手腕力量が高く評価されたからであった。

投稿者 koriyama : 14:03 | コメント (3)

No.522「教育資料館は洋風と和風が入っている。」

■教育資料館とは・・・
明治21年に建てられた当時の洋風学校建築を代表する建物である。
当時の再現教室も展示してある。
とても懐かしい感じのするところである。
■館長さんはこう語る
洋風といえばれんがだが、この学校は、板造りでできている。
木造でできており屋根は瓦、板張りは和風となっている。
しかし、バルコニーなど和ではないものがあることから、洋風と和風が混ざっているといえる。
■洋風と和風を混ぜたわけ
洋風と和風を混ぜたのは棟梁の山添喜三郎がより快適な校舎にしようと考えたからである。
■教育資料館は洋風と和風が入っている素晴らしい学校だった
教育資料館は、より効果的に快適な構造にしようとした山添の素晴らしい作品だった。
山添は実際にヨーロッパやアメリカに渡り、洋風の構造を勉強した。
ちなみにバルコニーが校舎の中心にあるのは、校長先生が生徒を全員見れるようにするためである。

投稿者 koriyama : 14:02 | コメント (3)

No.521「山添喜三郎の子孫は・・いる。」

■山添喜三郎とは・・・。
「登米高等尋常小学校校舎建築」と登米警察署庁舎」を建築した人。
他にも、色々と設計をしたが、いずれもすでに解体撤去されてしまっている。
オーストリアのウィーンに行き、日本のイメージを世界に広げた人でもある。
■今現在の子孫は・・・。
山添喜三郎の子孫はいる。
女性の方が、いるという。
2人の人が仙台にいる。
■世界にまで建築を担当した、山添喜三郎はスゴイ人だった
山添喜三郎は、会社の建築のため、38歳の頃に仙台に来た。
だが、42歳の頃に、小学校校舎の新築のため、登米村に行った。
宮城県の技手であった。
■山添喜三郎は、仙台とおおいに関係があった。
山添喜三郎は、1度仙台に来た。
子孫は仙台にいる。
このことから、仙台とまったく関係がない訳ではなかった。

投稿者 koriyama : 14:01 | コメント (9)

No.520「教育資料館は、洋風と和風が入っている。」

■教育資料館とは・・・
教育資料館とは、明治時代に建てられた、洋風学校である。
1階の窓には霜よけがついていて、2階にはバルコニーがついている。
そして昇降口が2つある。
各教室には、当時の教科書などが展示されている。
■データによると・・・
洋風というと、れんが造りだが、この学校は木造である。
屋根は瓦であり、壁は板張りで、和風である。
しかし、一方では、洋風が入っている。例えばバルコニーや外景である。
このことから、洋風と和風が入っていることがわかる。
■洋風と和風を混ぜた理由は?
洋風と和風を混ぜた理由は棟梁の山添喜三郎が効率的に、効果的に、快適な校舎にしようと考えた。
そしてこのような校舎になった。
れんが造りが木造になった理由は、地元にある材料で造られたからである。
■教育資料館は、山添喜三郎がつくった作品だった。
教育資料館は、快適な構造を考えた山添喜三郎の和洋折衷の作品だった。
山添喜三郎は実際にヨーロッパやアメリカに行って構造の勉強をした。

投稿者 koriyama : 14:00 | コメント (2)

No. 519「登米町には洋風建築が多い。」

■今も残っている洋風建築
旧登米尋常小学校(教育資料館)明治21年建設
旧登米警察署
旧水沢県庁庁舎(水沢県庁記念館)明治5年建設
■洋風建築の特徴
外見が洋風でも中は和風という建物が多い。
吹き抜けのバルコニーやベランダ、ポーチに欄干などを取り入れている。
■なぜ洋風建築が多いのか
宮城県建築技手だった山添喜三郎氏の建築によるため。
山添喜三郎氏はヨーロッパを巡り洋風建築を勉強し、明治9年のアメリカ建国記念万博で出品しアメリカの建築を勉強した。
■確かに登米には昔の洋風建築が多かった
山添喜三郎氏は登米で洋風建築を多くたてたすごい人だった。建設されてから100年以上もたってもあるということはすごく頑丈に作られている。

投稿者 koriyama : 13:59 | コメント (2)

No.518「山添喜三郎のせいで、倒産した瓦屋がある。」

■山添喜三郎とは?
山添喜三郎は小学校を始め、茶屋・神楽殿・神土を建築した人。
新潟県浦原郡角海兵村出身。
そして、明治20年登米村を建築した。
山添喜三郎が設計した小学校の瓦は、今でも青みがあり、きっちり・きれいにはまっていた。
■瓦の作り方
屋根に使う瓦は、1枚1枚重さを測る。
これを一夜水に漬ける。
翌日、又重さを計って吸水量を調べる。
一定以上の量目の瓦は、すべて不合格とされた。
■なぜ倒産?
予想以上に手間ひまがかかった。
工場は家財を売り払っても、借財が残ってしまった。
工法になれていない大工の苦労も、並たいていではなかった。
■山添喜三郎は、生徒の事を1番に考えていた素晴らしい建築家だった。
山添喜三郎のせいで倒産した瓦屋はあった。
でも、生徒の安全を考えて建築した素晴らしい建築家だ。

投稿者 koriyama : 13:59 | コメント (5)

No.517「教育資料館の建築費は5874円」

■教育資料館の館長さんはこう語る。
教育資料館が明治21年に建てられる。
その時にかかった費用か5874円。
■5874円?・・・・
「5874円は昔の値段」と館長さんは言う。
今の値段だと約10000倍の8000万円!
■まとめ・補足
5874円と言う大金を使って、昔あまり学問が発達していなかった日本に県内最大の学校を建てた。
上記のことから、昔の登米はとても教育に力を入れていたことが想像される。
教育資料館は、昔の人にも今の人達にもなくてはならない登米の貴重な建物。
登米の小学校は、4年通えしかも、8階級に分かれていた。
■教育資料館は本当に5874円だった
教育資料館は、明治21年に建てられ、そのときにかかった値段が5874円。
当時の人達にとって、5874円とは、考えられないほどの大金。
当時、学問が発達していなかった日本に、5874と言う大金を学校の建築費に使うということは、当時の登米は学問に力を入れていた。

投稿者 koriyama : 13:58 | コメント (20)

No.516「教育資料館のあるところの顔から、いちご・オレが出る。」

■教育資料館の館長さんはこう語る。
昔は、こんなものはなかったが、今は、ユニークなものをいろいろおいている。
2001年、「顔からいちご・オレ」を取り付ける。
■「顔からいちご・オレ」は、こうして出る。
まず、ボタンを押す。
そして、口が開く。
ランプが光り、そこには、「コップを置いてください。」と書いてあるので、コップをおく。
そして出る・・・・・・!!
■「顔からいちご・オレ」の評判は・・・。
「昔は、おもしろいと評判はよかったです。」
「ですが、今では気持ちわるがられて、誰も買ってくれない。」
「でも、子供は、「おもしろ~い」と言ってくれるが、その親が、「やめなさい」と言って結局買ってくれない。」
■教育資料館にある「顔からいちご・オレ」のいちご・オレが出る瞬間は、本当に気持ち悪かった。
この、「顔からいちご・オレ」は、2001年に取り付けられた。
ここの館長がユニークな物が欲しいと考えたところ取り付けられた。
おやからは、気持ち悪いとクレームが殺到した。
館長は、登米のことを考えるいい館長だった。

投稿者 koriyama : 13:57 | コメント (13)

No. 515「水沢県庁記念館で売られている石は、外にたくさん落ちている。」

■水沢県庁とは
水沢県庁舎は明治4年に建てられた。
明治8年になるまで使用され、その後県庁は一関に移った。
水沢県庁記念館で売られている石は、ふくろに数十個入っており、420円で売られている。
■落ちている石は
雨の日のためか石には黄色のコケが生えていた。
外には、その石がたくさんしかれてあった。
水沢県庁記念館の外の石は、大きいや小さい石などいろいろ種類がある。
■石の意味と様子
売られている石は、主に平らで、四角形に近い形をしている。
黒い色をしているが、少し輝く黒い石である。
石には魔よけの意味があると書いてあった。
■確かに売られている石は外にたくさん落ちていた。
水沢県庁記念館の石は、いろいろな所から来た旅行者などにお土産として売られている。
今の水沢県庁記念館の様子は、平成2年に復元されたもの。
水沢県庁は宮城県内の官公所建築を代表する建物。
洋風を取り入れつつ、和風も取り入れた建築である。

投稿者 koriyama : 13:56 | コメント (6)

No.514「山添喜三郎は世界的にも有名だった。」

■山添喜三郎のプロフィール
建築家山添喜三郎は、天保十四年九月十五日に新潟県(西浦原郡角海兵村)に生まれた。
大工として建築を志し、腕も相当なものであった山添は、オーストリアのウイーンで開催された万国博覧会に政府からの主張を命じられ、ウイーンへ向かった。
そして会場に日本家屋を建築し、多くの外国人の目を見張らせるとともに日本の芸術文化を認識させた。
■山添喜三郎のその後
山添喜三郎は、日本だけではなく世界でも活躍していた事が分かった。
そして山添は同年にロンドンに渡っていた事も分かった。
そこでも茶店、神楽殿、神社、数奇屋風売店等を建て上げ、さらに土蔵も造っている事がわかった。
■代表的な建造物
すべての任務を終え、明治七年(一八七四年)三月十三日に、日本へ帰国する。
山添は、県内の多くの建築物を手がけたが、本町にも明治二十二年に完成した旧登米警察署の庁舎がある。
また近隣では佐沼小学校、飯野小学校なども彼の設計によるものだ。
■記念碑となったもの
しかし、いずれもすでに解体撤去されていてその面影もなく・・・
現存する建造物としては、本町の旧登米高等尋常小学校校舎と旧登米警察署庁舎だけで、
建築家山添喜三郎の記念碑ともいえるものなのである。

投稿者 koriyama : 13:55 | コメント (3)

No.513「蔵の資料館の蔵の中には井戸がある。」

■蔵の資料館とは・・・
宮城の明治村と呼ばれる登米にある資料館で、資料館そのものが昔酒蔵として使われていた。
この蔵の資料館は、他にも4つの蔵がありその蔵で作っている味噌、しょう油は、宮城県でも最古の歴史を誇っている。
■蔵の資料館を案内してくれた人はこう語る
この蔵(現在資料館になっている蔵)は、もともと酒蔵だった。
そしてその蔵の中にある井戸は、水をくんだりするためではなく、酒の仕込用に使っていた井戸だった。
■作られた酒と酒蔵について
この蔵では、明治41年まで、清酒「君が代」を造っていた。
この蔵は、約85年間手を加えられずに、その姿を現在にとどめている。
蔵の中には井戸があるほか、中2階と呼ばれる階があり、その上に神棚があるという他ではあまり見られない珍しい造りになっている。
■確かに、蔵の資料館の中には井戸があった
資料館の蔵は、85年間のあいだ、手を加えられずに昔のままの姿を現在にとどめている。
この資料館で造られている味噌、しょう油を売っている店は、創業171年である。

投稿者 koriyama : 13:54 | コメント (5)

No.512「明治時代の登米小学校では生活に必要なことだけを学習していた。」

No.512「明治時代の登米小学校では生活に必要なことだけを学習していた。」
■明治時代に詳しい方はこう語る
登米小学校は、明治21年に建てられた。
登米小学校は、コ型の形をしてた昔ならでわの学校です。
昭和53年では、宮城沖地震があり、大きな損害を受けた。
■登米小学校の教科は
登米小学校の教科は、読書、作文、習字、算術の4教科である。
読書は、いろいろな学本を読んでいた。作文は、戦争などのことをかいていた。
■教科のことを気づいたきっかけは
実際に、登米にいって、教育資料館にいって見て来た。
教育資料館には、明治時代のいろいろなできごとが飾られていた。
そこには、教科のことが飾られてあり、調べたくなったから。
■生活に必要なことを学習していた
明治時代の小学校は、読書、作文、習字、算術の4教科だった。この4教科は、教育資料館にいけば分かる。
子供たちは、作文に戦争のことを書いていた。昔の教科では、国語的なことをかなりやっていた。今は、世界的なことをやっている。

投稿者 koriyama : 13:53 | コメント (1)

No.1511「山添喜三郎が日本建築をヨーロッパに紹介したことがある。」

No.1511「山添喜三郎が日本建築をヨーロッパに紹介したことがある。」
■教育資料館の館長はこう語る
教育資料館は木造2階建である。
明治21年<1888年>2年半の歳月をかけて落成した。
昔の生徒達はいろいろな本をよんでいた。
■教育資料館のすごかったところは
明治の洋風学校を代表する学校だった。
明治の洋風学校を代表する建築物として昭和56年国博覧会に日本から派遣された。
山添喜三郎氏が日本建築を紹介した。
■その学校は
昭和54年新校舎の落成とともにその役割を終えました。
その後も高等学校、中学校の校舎改築時の仮校舎とされた。
昭和62年に大きな地震が起きて保存修理を行った。
平成元年に大正時代の授業を体感できる明治からの教科書を展示した教育資料館として一般に公開されている。
■山添喜三郎が日本建築をウイーン万博でヨーロッパに紹介したことがある。
山添喜三郎が日本建築をヨーロッパに紹介された。
平成元年の大正時代の時に再現教室や教科書を展示してある。

投稿者 koriyama : 13:52 | コメント (1)

No.510「蔵の資料館ではお酒や醤油作っている。」

■蔵の資料館とは・・・
蔵が3つあり店を始めてから171年目。
蔵の資料館は、テレビ局にも取材された。
醤油は蔵の資料館だけで売られているレア物。
■蔵の資料館に詳しい人はこう語る
醤油は、全国トップ100に入ったという。
また、京都でもそのような大会があり全国トップクラスに入っていた。
■醤油を試食してみると・・・
ふつうのしょうゆとはちがい味が濃かった。
他にも醤油でお菓子をつくっている。
■蔵の資料館では蔵だけではなくお酒や醤油も作っている。
蔵の資料館では、お酒や醤油をつくってる。
醤油は、全国トップクラスに入るすぐれ物。
テレビ局にも取材される有名な場所。
蔵の資料館だけで売られていて他では売ってないレア物。

投稿者 koriyama : 13:51 | コメント (3)

No.1509明治40年に義務年限が六か年となった。

■教育資料館の館長はこう語る。
今の小学校も義務教育年限が六年である。
教育資料館は明治21年に建てられた当時の洋風学校建築を代表する建物で明治以後の教史各時代の教科書なつかしい再現教室等を展示している。
■その資料によると
明治40年小学校の改正により義務教育年限を「六か年」となす。
登米高等小学校登米第二尋常小学校とを廃し登米第一尋常小学校に高等科を設置し校名を「登米尋常高等小学校」と改称する。
修業年限尋常科は六か年、高等科は二年となる。
■学生の人数はふえたのか。
新しく「登米尋常高等小学校」に改称された。
改称され学年も六か年となった。この年児童数は尋常科603人分教場108人高等科447人計1158人となった。
■登米町の人々
登米の小学校はとても勉強熱心な小学校だった。
そして平成元年に保存修復作業が行われたらしい。

投稿者 koriyama : 13:51 | コメント (3)

No.508「教育資料館の建築費は今のお金に換算すると8000万。」


■教育資料館に詳しい方はこう語る
教育資料館は明治21年(1888)年、2年半かかってできた建物である
1888年に建設された。
お年寄りの人は懐かしいといっていた。
■教育資料館を訪れる人の評判
大人の客は多いが小学生などの客は少ない。
中学生などは校外学習などで来ることが多い。
■お年寄りの客が多い
教育資料館の建築費は当時5874円
今のお金に直すと8000万だった。
当時のお金は5874円。
昭和62年に保存修理をした。
■昔では建築費は高かった
教育資料館の当時の値段では5874円は高いおっしゃていた。
「今の値段は8000万だと知ったときはびっくりしたとおっしゃていた」
お年寄りの人は懐かしいとおっしゃていた。

投稿者 koriyama : 13:50 | コメント (5)

No.507「森舞台の能舞台は現存する日本最古のものである。」

■森舞台に詳しい方はこう語る
森舞台はその年最も建築物に対して贈る作品部門に入賞した。
本格的な能舞台を備えていた。
森舞台は平成6年(1996)年6月1日にオ-プンした。
■森舞台のすごかったところ
能舞台は本舞台、橋掛かり、地謡座、御座の4部分から成り立っている。
能面は大きく分けて4種類に分かれていた。
能面は小さく分けて8種類に分かれていた。
■登米町の能舞台
森舞台は登米町の美しい森の中にあった。
すべての空間は森に向かって開放されていた。
森舞台を愛する人々に対して開放されていた
■森舞台の能舞台は、確かに最古のものだった
森舞台は、地域文化の活動拠点として建設されたものである。
伝統芸能伝承間は、本格的な能舞台、稽古場、展示室などがある。
登米町には、藩制時代から伝わる「登米能」「登米囃子」など伝統芸能が盛んで長年町民の手で大切に受け継がれている。

投稿者 koriyama : 13:49 | コメント (3)

No.506「登米警察署から脱獄する者はいなかった」

■登米警察署とは
明治22年に建てられ、登米警察署として使われた。
洋風を取り入れた、木造2階建てで、2階に吹き抜けのバルコニーがある。
屋根は、奇棟造り桟瓦葺きで、一部は平屋根になっている。
外壁は板張りにペンキを塗り仕上げてある。
■登米警察資料館の方はこう語る
Q脱獄した者はいましたか?
A「はいいません」
A「あそこから出るのは、当時は難しかったと思いますよ」といっていました。
■実際に見てみた
牢屋の周りは、がんじょうな木で囲まれていた。
牢屋の中には、窓があるものの窓には木がはめてある。
あとあるといえばトイレくらいだ。
このほかに外に出るところはない。
■牢屋から抜け出せるものではなかった
やはりあの牢屋からは当時の人では抜け出せないと思う。当時で抜け出せる人がいたら知りたいくらいだ。
狭く、古くなり、機能的ではなくなり、昭和43年から使われなくなった。
使われなくなり、その後は、水澤県庁敷地に建設された。

投稿者 koriyama : 13:48 | コメント (2)

No. 505「登米神社の警備は、あまい。」

■登米神社とは
天喜年間に源頼義が創立した神社。
その子義子が山城男山幡を勧請した神社。
門には随身神像が二体あり、境内には芭蕉の句碑がある。
神社の階段は、コケが生えている。
登米神社の賽銭箱にお金を入れると。
神社の賽銭箱にお金を入れた瞬間警報ベルがなった。
すぐ下には、管理人がいるのに誰一人としてこなかった。
■賽銭箱の意外な真実
まれにお金を入れると、警報ベルがなることがあるので注意してくださいという注意書きがあった。
その賽銭箱は、お金を入れるとまれに警報ベルが鳴るので無視しているという。
■確かに登米神社の警備は甘かった。
その後も、ベルが鳴りやまなかった。
そして、もう一度お金を入れたら警報ベルがなにやんだ。
ちなみに登米神社の階段は、207段。

投稿者 koriyama : 13:47 | コメント (9)

No.504「登米警察署の制服は今まで4回変わった」

■登米警察署とは
明治22年に建てられ、昭和43年まで登米警察署として使われた。
明治の洋風事務所建築として極めて珍しいもので昭和63年県の重要文化財に指定された。
昭和43年新庁舎の落成に伴い警察庁舎としての役割を終えた後、商工会が使用していた。
昭和61年保存修理を行い、翌昭和62年に「警察資料館」として一般に公開されている。
■制服の歴史
警官の制服は10年には白と黒でした。
昭和21年にベイジュに変わってきた。
昭和27年に黒に変わってきた。
昭和51年に紺色に変わってきた
■登米警察資料館で見た制服の特徴
帽子のマークが変わっている。
黒や紺色の制服が多かった。
■たしかに登米警察署の制服は今までも4回かわった
時代の流れと、共に制服が変わってきていた。
制服をかっこよくし、憧れる人が多くなるようにしたい気持ちがあったのかもしれない。

投稿者 koriyama : 13:46 | コメント (3)

No.503「旧登米小学校をコの字型にした理由は、校舎全体を伺い知ることができるから。」

■旧登米小学校とは・・・
明治21年10月に建てられ当時の洋風学校を代表する建物。
価値ある貴重な建造物。
平成元年に保存修復作業を行い建築当初の状態に復元してある。
■校舎の作り
純木造2階建て。
昔ながらの洋風建築。
コの字型に作られている。
■コの字型に建てた理由
コの字型だと校舎のいろいろな所から生徒の様子が見れるから。
実際に見てコの字型のどこからでも校舎全体が見えた。
■コの字型の何処からでも校舎全体が見えた。
校長先生は生徒の事を大切に思っていた。
校長室にはじゅうたんがしいてあって教室よりもちょっと狭かった。

投稿者 koriyama : 13:45 | コメント (6)

No.502「警察資料館は木造だった。」

■実際にいってみた。
警察資料館は、明治22年に建てられ昭和43年まで使われた。
昭和63年に現在の姿に復元された。
2階には吹き抜けのバルコニーがあり、洋風を取り入れた木造2階建である。
館内には、明治時代の警察署内の様子が再現された。
■構造について!
屋根は、寄棟造り桟瓦きで一部は、平屋根となっている。
外壁は、板張りにペンキ塗り仕上げです。
全体の意匠にも巧みに洋風を取り入れている。
明治中期の擬洋風建築として極めて珍しいもので、貴重な文化遺産といえる。
■木造なのはなぜ?
昔は、鉄筋もコンクリートもない時代だった。
当時地元で調達できる資材は木材のみだった。
留置所も調達できる資材は木造のみだった。
留置所も木造だった。
■確かに登米警察署は木造だった
木造の留置所の中は、けっこう広かった。
警察署には、パトカー1台、白バイクが2台あった。
木造の留置所・警察官の制服や装備等を展示してある。

投稿者 koriyama : 13:44 | コメント (6)

No.501「蔵の資料館は有名な店である。」

■蔵の資料館とは?
171年前から営業している
1833年に醸造業として創業した。
公開している蔵は、明治41年まで使われていた。
約85年間手を加えていないのでそのまま残ってる。
■蔵の資料館のびっくり
宣伝をしていない!
テレビ局の人が取材にきてテレビで放送するから宣伝しなくてOK
ほかの店では売っていないので、ファンの人は、配達か、本店にいくしかない。
わざわざ県外からきて買っていく人もいる。
■蔵の資料館の醤油
全国トップクラスの醤油を作っている。
香りはこってり系
味はあとにも残るほど濃厚。
色はけっこう濃い目。
■蔵の資料館のご主人の思いで、有名になった。
昔のものを大切に残している。
県外にファンがいるぐらいおいしい。
宣伝をしていないのにおいしいと評判で、テレビ局からも取材を頼まれ、有名になった。
このようにご主人の日々の改良でいい評判が広がり有名にやったのでしょう。

投稿者 koriyama : 11:34 | コメント (9)

No.334「今の登米町は昔、登米県だった」

■登米県であった証
登米町は明治時代からの建物をそのまま残している町である。
別名「みやぎの明治村」としてみんなに親しまれている。
当時の登米県は現在の宮城県北部と岩手県南部を合わせた県を登米県とした。
登米県の次は胆沢県、一の関県、次が水沢県と称し、磐井県から宮城県になった。
■当時の水沢県庁舎
明治4年、水沢県庁舎が設置されることになった。
そしてその年の7月、上棟式が行われた。
翌年の明治5年、「水沢県庁舎」として落成。
明治8年までの4年間使用されていた。
■なぜ登米県になった?
明治元年戌辰戦争で政府軍に敗れた仙台藩は領地を没収された。
明治2年に仙台藩が分割された。
そして藩から返された地域は「県」とよばれた。
その中で現在の宮城県北部と岩手県南部を合わせた地域を「登米県」とした。
■登米町の歴史に残る「登米県」
「登米県」になったきっかけは戌辰戦争で敗れたためである。
建物は洋風の木造になっており、日本独自の貴重な洋風建築といえる。
平成元年に保存修理が始まった。
平成3年、宮城県登米町に「水沢県庁記念館」として一般に公開された。

投稿者 koriyama : 11:30 | コメント (6)

No.333『登米町には昔、建物を寄付した「渡辺政人」いう人がいた。』

■そもそも教育資料館とは・・・
明治時代からの教科書や教材などが展示されている。
一般の人にも見られるようになっている。
木造二階建て!!
■登米町教育資料館の方はこう語る。
登米町教育資料館は昔は尋常小学校という学校だった。
「新しい校舎にしよう」という事になったが旧校舎を壊さずに新しい土地に建てた。
登米町の人々は土地があるため昔の建物を壊さずに他の土地に建てた。
土地が余っているため建物を壊す必要がないのだ。
■建物の再利用
登米町の人は土地をたくさん持っていた。
登米町の人はその土地に建物を壊して立て直さなくても土地がたくさんあるので他の地に立てた。
そのままの建物は登米町に寄付されて今も資料館などに使われている。
寄付してくださったのは「渡辺政人さん」
■確かに登米町には昔の建物を寄付してくださった『渡辺政人さん』という人がいた
確かに登米町には昔の建物がいっぱいあった。その建物を渡辺政人さんは寄付してくださった。
政人さんは登米町の名誉町民。
今、懐古館で『渡辺政人コレクション』をやっています。
政人は『まさと』じゃなくて『まさんど』。

投稿者 koriyama : 11:30 | コメント (6)

No.332「明治時代の小学校は洋風だった。」

■洋風の特徴、利点など
欧米の洋風建築様式が学校などに多く取り入れられた。
洋風建築の学校が盛んに造られた。
コの字型は校舎全体を伺い知る事が出来るようにするため。
今では明治中期の地方文化の結晶として価値のある建造物。
■資料館のバルコニーでは
朝会のような時、校長はシンボル的なバルコニーで話していた。
バルコニーは校舎全体の中心的な位置にある。
バルコニーはシンボル的な役割を果たしている。
バルコニーの後ろには校長室がある。
■資料館の造り
資料館の昇降口は六方と呼ぶ。
廊下は吹き抜けの廊下式となっている。
屋根は寄棟(よせむね)造り瓦葺きになっている。
一階の窓には霧よけの庇(ひさし)がついている。
■確かに昔の小学校は洋風だった
平成元年に保在修復作業を行った。
建築当初の状態を忠実に復元してある。
明治以後の教育史、各時代の教科書なども展示してある。
懐かしい再現教室なども展示してある。

投稿者 koriyama : 11:29 | コメント (6)

No.330「登米高等尋常小学校の生徒数は県内最大だった」


■教育資料館の人はこう語る
明治2年には生徒数が県内最大だった。
登米には合ぺいする町がなかった。
生徒数が1000人を超えることがたびたびあった。
登米高等尋常小学校は「登米高等小学校」と「登米尋常小学校」とがつながってこの名前になった。
■登米高等尋常小学校はこんな学校
登米高等尋常小学校の建設監督は山添喜三郎という人だった。
山添喜三郎はロンドンに建設の勉強をしに行った。
山添喜三郎はロンドンで洋風建築の技術を学んだ。
登米高等尋常小学校は洋風になっている。
■登米高等尋常小学校の特ちょう
バルコニーが真ん中にある。
校舎がコの字型になっている。
外見は洋風になっている。
中はたたみなどがあり、和風になっている。
県内最大だった登米高等尋常小学校は、今も残されている。
今は教育資料館になっている。
■県内最大だっただけあって、建物はすごく大きい。
当時の教科書や写真などが展示してある。
校長室や教室もある。

投稿者 koriyama : 11:28 | コメント (5)

No.329 「教育資料館の児童数は、県内最大だった。」

■登米に詳しい人は、こう語る
児童の親は、教育熱心だった。
そのため、義務教育では、なかったのに、県内最大の477人を記録した。
■最大になった理由
登米が、県内最大を記録した明治9年この時代には裕福な家族が多かった。
そのため、義務教育ではなかったのに県内最大の477人を記録した。
■たくさんの資金をかけた教育資料館の児童数は1000人を超えていた
教育資料館は明治31年には生徒数が1000人を超えていた。
町の予算を48%を教育に使ったのは登米だけだった。
■教育にかける熱意
多額の資金を教育。

投稿者 koriyama : 11:28 | コメント (4)

No.328「山添喜三郎は外国で洋風の勉強をしていた」

No.328「山添喜三郎は外国で洋風の勉強をしていた」
■教育資料館、館長さんはこう語る
登米尋常小学校を手がけた山添氏は登米の洋風建築を手がけた人物である
天保14年、新潟で生まれる
大工としての腕は相当な物であった
明治5年から7年まで欧米していた
■山添氏はこうして外国に行った
明治5年、オーストラリアの万国博覧会に出張を命じられ
会場に日本家屋を建築し、日本の芸術のすばらしさを認識させた
翌年、イギリスで茶店、神社等を建て上げ、さらに土蔵も造った
そしてすべての任務を終えて明治7年、帰国した
■日本に帰ってきて
明治16年、工事監督として仙台に招かれる
仙台の工事を通して、建築家としての腕が高く評価される
そして明治18年、宮城の建築主任として迎えられた
明治20年には、登米村で小学校の新築が計画され、技師を担当した
■外国まで行った山添氏は宮城にたくさんの建築物を手がけた
明治24年、小学校完成
小学校のほかにも登米警察署などを登米に手がけた
そして宮城を永住の地として住んだ
山添氏がいなかったら今の登米の素敵な町並みはなかっただろう。

投稿者 koriyama : 11:27 | コメント (4)

No.327「警察資料館は昭和43年まで登米警察署として使われていた。」

■警察資料館の人はこう語る
警察資料館は明治22年に建てられた。
昭和43年まで登米警察署として使われていた。
昭和63年に現在の姿に復元された。
登米警察署として約80年間使われた。
■建物の外見・特徴は
洋風を取り入れた木造2階建て。
外壁は板張りでペンキ塗り仕上げ。
明治中期の擬洋風建築として極めて珍しいもの。
屋根は寄棟造り桟瓦葺きで、一部は平屋根となっている。
■建物内部は
明治時代の館内の様子が再現されている。
木造の留置場、警察官の制服や装備等を展示している。
展示物の中でもパトカーは中に入ることができる。
警察官の制服のほか、消防士等の制服も一部展示してある。
■歴史ある建物として登米警察署はこれからも永遠に保存され続けるであろう
警察資料館は県指定の重要文化財に指定されている。
日本唯一の警察資料館として公開している。

投稿者 koriyama : 11:26 | コメント (4)

No.326「昔の警察官は消防の仕事もしていた。」

■警察に詳しい方はこう語る
明治20年8月に登米警察署となりました。
当時警察署には消防署がありました。
消防士は「火消」と呼ばれ住民の憧れの的でした。
そして昭和29年7月自治体警察登米町警察署が登米警察署となりました。
■警察官はこうして消防の仕事をしていた。
消防士警察官がかけつけた。
消防士は懸命な消火活動をする。
警察官は家に入り人を助け出し家財を運び出しました。
こうして警察官は見事に人を救い出した。
■ほかに警察官の仕事は
ほかにも伝染病予防や処置。
悪いことがおきないよう町の見廻り。
今と同じ悪いことをした人を捕まえる仕事をしていた。
警察官の中には仕事中に殉職する人もいました。
■いつの時代でも警察官は命懸けで町の平和を守っていた。
明治時代の警察署には消防署もあった。
いろんな所で人を助けていた。
警察官の中には治療中の伝染病がうつり殉職する人もいました。
そんな中でも警察官は自分の仕事をきっちりはたしていた。

投稿者 koriyama : 11:25 | コメント (12)

No. 325「教育資料館をつくるための資金はほとんど寄付されたものだった」

■教育資料館とはどういうとこか
もともとは旧登米尋常小学校だった
その小学校は明治21年に設立
建設予定地の関係で明治21年になった
かかった期間は506日だった
■資金を提供してくれた人たちは
生糸業、運送業、商業、実業家などの人達が資金を寄付してくれた
建設費は3500円をかけてつくられた
総事業費は5874円だった
つまり、昔の人達はお金もちだった
■登米の人達は勉強熱心!?
普通は税金で建物を建てていた
しかし旧登米尋常小学校をつくるための資金は寄付されたものだった
資金提供者たちは子供たちに勉強をさせてあげたいという気持ちが強かった
つまり、子供たち思いな人達が多かった
■みんなの協力のもとでつくられたすばらしい教育資料館だった
506日もかけてつくっていたなんて今では考えられないほどおそいと思った
昔の登米の人達は自分のお金をつかってまで学校を建てていてすごいと思った
洋風でおしゃれ感があった
実際より建物が大きいと思った

投稿者 koriyama : 11:24 | コメント (7)

No. 324「森舞台には床を踏むと音が出る瓶がある。」

■森舞台はどんな所か
地域文化の活動拠点として建設されたもの。
本格的な能舞台、稽古場、展示室などが備えてある。
毎年6月と9月、秋祭りなどの時に上演している。
平成8年6月1日にオープンした。
■森舞台の建築
その年、最も優れた建築物に対して贈る作品部門に入賞した。
本舞台、橋掛かり、地謡座の4部分から成り立っている。
正面奥の鏡板には、日本画家、千住博製作の「老松」と「若松」が描かれている。
後座の左側に延びる橋掛かりは、登場、退場の通路として使われている。
■音の出る瓶
床の下にある瓶は、演者が踏むとポンと響く音が出る。
瓶は音響効果を高めるためにある、大切なもの。
瓶の位置、向きは京都西本願寺北能舞台を参考に配置してある。
京都西本願寺北能舞台は日本最古の能舞台である。
■森舞台は瓶など様々な所に工夫がされている素晴らしい所である
森舞台は森に向かって開放されている。
登米の人々に能を愛する、すべての人々に対して開放されている。
「登米能」をはじめ「岡谷地南部神楽」など伝統芸能が盛んである。
伝統芸能は長年町民の手で大切に受けつがれている。

投稿者 koriyama : 11:24 | コメント (3)

No.323「警察資料館にある制服の種類は25種類」

■「警察資料館とは、」
日本唯一の警察資料館として公開しているところ
貴重な文化遺産ともいえるところ
明治22年に建てられ、昭和43年まで登米警察署として使われたところ
木造の留置場・制服・装備等を展示しているところ
■制服の種類
音楽隊の服・活動服・機動隊の服・機動隊出動隊服
交通機動隊服・少年補導員服・防寒衣
警察服・少女補導員服・アメリカ服
警視庁服(男性)・冬服・夏服
■どんな人が、どんな服を着ていたか
音楽服・・・行進するときなど、曲を演奏する人が着る服
活動服・・・夜の見回りや、街の様子を管理する人が着る服
機動隊出動服・・・白バイ、パトカーで捜査に出る人が着る服
交通機動隊服・・・信号が故障したり、事故があったときに、指示を出す人が着る服
警察資料館にある制服は、25種類で、デザインも、様々だった
■昔よりも、服の種類が、減ったこと
今は、青などの色しかないこと
昔は少女補導員の服もあった
デザインが昔よりも多い

投稿者 koriyama : 11:23 | コメント (9)

No.322「明治時代にバルコニーから双眼鏡で監視している警察がいた」

■警察資料館に詳しい方はこう語る
建てられたのは、明治22年。
昭和43年「約80年」まで使用されていた。
遠見台とも呼ばれていた。
船着場や繁華街を見ることができた。
■バルコニーはこうした役割もしていた
昔登米小学校の校長先生が授業の様子を見たかった。
バルコニーを造り、そこに双眼鏡を置いた。
授業の様子を双眼鏡でみていたらしい。
バルコニーのうしろには、校長室がある。
■警察資料館のバルコニーでは
警察資料館の2階にあるバルコニーの名前は、吹き抜けバルコニーという。
そこから船着場を見ていた。
そして、悪いことをしている人を見たらすぐに捕まえに行った。
警察資料館では、いろいろな所をバルコニーでみていた。
登米警察官がバルコニーから双眼で北上川の所を見て悪いことをしていないかを見ていた。
今は、警察資料館のバルコニーからは、外の様子は、見られない。
■建てられたのは、明治22年
登米小学校の校長先生がバルコニーで授業の様子を見ていた。
バルコニーの名前は、吹き抜けバルコニーという。

投稿者 koriyama : 11:22 | コメント (9)

No.321「明治の犯罪と今の犯罪にはそんなに差がない」

■旧登米警察署庁舎
旧警察署は明治22年に建てられた。
旧警察署は昭和43年まで警察署として使われていた。
昭和63年に復元された。
明治中期の貴重な文化遺産といえる。
■明治の犯罪
窃盗・・・人の物を盗むこと。
暴行・・・人を傷つけること。
政治犯・・・政治のルールを乱す犯罪。
放火・・・人の物を燃やす。
■現代の犯罪
窃盗・・・人のものを盗むこと。
暴行・・・人を傷つけること。
人殺し・・・人を殺すこと。
誘拐(拉致)・・・人を連れ去ること。
■犯罪は100年たってもそんなに変わらない
明治時代には今と比べて人殺しの犯罪は少なかった。
明治時代にも窃盗の犯罪があった。
明治時代にも暴行で捕まる人がいた。
明治時代にも他人の家に火をつける迷惑な人がいた。

投稿者 koriyama : 11:21 | コメント (4)

No.320「登米には80年間も、警察署として使われた建物がある。」

■登米警察署に詳しい人はこう語る
登米警察署は、明治22年にたてられた。
登米警察署の設計監督をしたのは、「山添喜三朗氏」によるものだった。
昭和63年には、県の重要文化財に指定された。
登米警察署は狭く、古くなり、機能的じゃなくなったため使われなくなった。
■登米警察署のつくりについて
登米警察署は、洋風を取り入れた木造二階建てだった。
登米警察署は、二階に吹き抜けのバルコニーがある。
登米警察署の屋根は奇棟造り桟瓦葺きになっている。
登米警察署の玄関屋根下の壁には、今なお金色の警察紋章がある。
■現在の登米警察署について
昭和61年に保存修理行った。
現在の登米警察署は昭和63年に復元され登米警察署になっている。
登米警察署には、木造の留置所・警察官の制服などを、展示している。
また、登米警察署にはパトカーや、白バイが展示されている。
■警察資料館は、登米警察署として明治22年から、昭和43年までの約80年間使われた
登米警察署は、県の重要文化財に指定されている。
現在は、日本唯警察資料館として公開されている。
警察資料館は、確かに明治22年から昭和43年までの約80年間、登米警察署として使われていた。

投稿者 koriyama : 11:21 | コメント (4)

N0.317「武家屋敷には2階がある。」

■春蘭亭とは
登米伊達初代藩主相模宗直公が慶長9(1604)年岩手水沢城から移った。
それに伴い、移住した鈴木家の屋敷である。
残念なことに創建年代は不祥である。
平成元年にこの町に寄付された。
■武家屋敷の構造
登米の武家屋敷の一段形式は、別棟の「ひろま」と称する書院座敷を本屋の前面に配することがある。
しかし、この武家屋敷は、この書院座敷に相当するものを別棟としなかった。
しかし、直接本屋の上手に取り込んだ「直ご家形式」となっている。
この種の形式は珍しく貴重な侍住宅といえる。
■武家屋敷の2階について
武家屋敷の中に小さな2階がある。
階段は、はしごのようになっている。
その家臣の子が宗直に仕えることになった。
■武家屋敷の今

投稿者 koriyama : 11:19 | コメント (3)

No. 315「明治時代の登米の人は教育熱心だった。」

■教育資料館に詳しい方はこう語る
教育資料館は、明治21年10月に建てられた、当時の洋風学校建設を代表する建物です。
建設費などは、ほとんどが寄付によるものであった。
■校舎の特徴
特徴的なのが2階バルコニーで、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしています。
廊下は1階2階とも拭き抜けの片廊下式となっていて、1階の窓には霧よけの庇が付いているのも特徴的です。
■登米の人は教育熱心
小学校建設に多額の資金をかけていた。
義務教育でなかったのに児童数が477人と県内最大だった。
教育に町の予算の48%をかけていた。
■今の教育資料館
今の教育資料館は、平成元年に保存修復作業を行い、建築当初の状態に忠実に復元してあります。
昔ながらの洋風の雰囲気を漂わせる様式は明治中期の地方文化の結晶として価値ある貴重な、建造物と言えます。

投稿者 koriyama : 11:18 | コメント (5)

No. 314「森舞台の舞台の下には、瓶が置いてある。」

■森舞台とは
日本建築学会がもっとも優れた建築物に対して贈る、作品部門に入賞した施設。
登米に伝わる「登米能」などの地域文化の活動拠点として建築された。
1996年6月1日にオープン。
本格的な能舞台、稽古場、展示室などが備えてある。
■どんな瓶が置かれていたか
舞台の下には、たくさんの瓶が置かれていた。
瓶の向きはそれぞれ違っていた。
色・形はほとんど同じだった。
結構大きめの瓶だった。
■瓶の役割
瓶は、音響効果を高めるために置かれている。
それで、演者が床を踏んだときに、ポーンと音が響くらしい。
瓶の位置・向きは、「京都西本願寺北能舞台」を参考にしている。
瓶は、登場・退場の通路の下にもあった。
■森舞台にとってその瓶は欠かせない物だった
舞台下の瓶は、ただ置かれているようだが、大事な役割を担っていた。
森舞台は、毎年6月と9月に上演している。
今年、結婚式もあったらしい。
展示室には、能装束や能面、登米能に関する資料が展示してある。

投稿者 koriyama : 11:17 | コメント (5)

No.313「旧登米高等小学校のバルコニーは亜鉛の板がしきつめられている」

■バルコニーの役割
朝会の時に校長先生の話などをしていた。
風雪のふしょく防ぐためにしていた。
2階の中心に立っていて目立っていた。
バルコニーの色は白だった。
■教育資料館について
教科書が全ページが片仮名だった。
昔のストーブだった。
教室の中にゆかたがあった。
昔の机はあくようになっていた。
■バルコニーの造り
「コ」の字型につくられていた。
校長室のまえにつくられている。
高さ3mくらいのところにつくられている。
全面に5~6枚の亜鉛の板がしきつめられていた。
バルコニーにとって亜鉛の板は、必要だった。
■バルコニーは、シンボルになっている。
一番最初に、目がいってしまう。
バルコニーから下を見ると、けっこう怖い。
今の学校にない物が昔の学校にあるとはびっくりした。

投稿者 koriyama : 11:15 | コメント (3)

No.312「昔の小学校ではノートが使われていなかった」

■昔と今の小学校の違い
子供たちの服装も今とは違い、昔は浴衣などを着ていた。
休み時間も、もちろん今とは違う遊びでお手玉やおはじきだっだ。
まだ、当時は学校に行けない家庭もあった。
男子と女子の生徒では女子は少なかった。
■学校の教育
学校のなかでも、小学校が一番教育に力が入れられた。
科目は今よりも多くあった。
特に国語的な教科が多数あった。
そうなると、ノートも必要なはずであった。
■教科書の役目
教科書の大きさは今とだいたい同じ大きさだった。
カタカナで書かれていて字が大きくて、あまりびっしりと書かれていたわけではない。
教科書の上の方にメモをとれるスペースがあった。
そこに授業のポイント等を書いていた。
■昔のノートではなくミニ黒板が使われていた
字の練習の時などにはノートサイズの黒板を使っていた。
一人ひとりに配布されていた。
あらゆる教科に使われていた。
紙ばかりを使うとなると経済的にも問題が出るのでノートが使われなかった。

投稿者 koriyama : 11:14 | コメント (4)

No. 311「今と昔の教室はちがう」

■昔の机のつくり
昔の机は、机の板をあげると教科書などいれる場所がある。
昔の机、いすなどは全部木でできている。
机が長くて二人で一つつかっている。
昔は机の横にフックがついていなかった。
■昔の教室は木造
先生方がつかう教卓も木造。
オルガンも木造でつくられている。
建物やバルコニーも木造でできている。
昔は木造以外のものをつくる働きをしていなかった。
■教卓は・・・
いまとちがって教卓の高さが中学一年生ぐらいの机より少し高い。
教卓のはばが机と同じぐらい。
教卓の柱は木でつくられていた。
教卓のあたりに大きいそろばんがある。
昔の教室は今とちがって構造がちがう
■いすの大きさがきまっていない
教室に、ボールではなく竹とんぼや紙ふうせんなどがおいてあった。
今とちがってロッカーがない。
いすの大きさが小学一年生のよりも小さい。

投稿者 koriyama : 11:14 | コメント (16)

No.310「当時の警察官は消防の仕事もやっていた。」

■今とは違う昔の警察官の仕事
火事や風水の被害の警備。
火事が起きたときの消防の仕事。
事故があった所から人を助け出す仕事。
警察と消防の仕事場は同じ場所にあった。
■昔の警察官は本職と消防の仕事だけではなかった。
伝染病予防や、処置の仕事。(死んでしまうかもしれない病気でも)
伝染病の処置をしていた時亡くなった人もいる。
家財などを火事の現場などから運び出す仕事。
警察と消防が一緒の場所にあったのはたいへんだった。
■今と変わらない仕事
悪いことが起こらないための警備。
町の見廻り。
悪いことをした人をつかまえる仕事。
事件がおきた時の捜査。
■当時の警察は、消防の仕事もやっていた。働き者の警察だった。
昔の警察の消防の仕事は「火消」と呼ばれていた。
住民のあこがれの的だった。
今の警察官はバイクでの技術を披露することもある。
白バイの隊員は体格がよくなくて、はいけない。

投稿者 koriyama : 11:13 | コメント (4)

No.309「明治9年児童数が県最大だった。」

■明治9年の教育資料館
卒業者数を見ても教育にかける熱意、意識の強さが分かる。
経済的にも裕福な家庭が多かったと思われる。
■建物の造り
一階の窓には霜よけ庇があるが、2階には、本屋根があるため庇が無い。
当時、洋風小学校が盛んに建てられたことや、設計者が欧米の建設様式を入れて設計したことによってバルコニーや吹き抜け廊下や六角形を半分に切った形の昇降口など造りにこだわっていた。
バルコニーは校舎の中央にあるために、校舎のシンボルとなっている。
校舎の形は、校舎全体をうかがい知るためにコの字型にしてある。
■明治31年の教育資料館の様子
明治31年(1888年)の児童数も1000人を超えていた
明治時代の小学校では、読書、作文、習字、算術などの学習をしていた。登米の小、中学校が完全給食となったのは、昭和39年の1月からだった。
■明治9年の様子
登米の就学率が高く、義務教育ではなかったのに、児童数が、477人と県最大だったのは、

投稿者 koriyama : 11:12 | コメント (2)

No.308「警察資料館にあるパトカーの後ろのドアは1度閉めると内側からでは1つしか開かない」

■資料館について詳しい人はこう語る
資料館は明治22年に建てられた。
それから80年間使われ続けた。
資料館には警察の制服や道具などが展示されている。
このことは、資料館を管理している阿部さんから聞いた。
■阿部さんの話
パトカーのうしろのドアは1度閉めると内側からでは1つしか開かない。
なぜかというとパトカーに犯人を乗せたとき逃げられないようにするためだ
パトカーのなかにはブザーもついている。
白バイも展示されている。
■当時の人はこのアイディアをどうおもったか自分で考えた
当時の人は、このアィディアをとってもすごい工夫だと思っていたと思う。
でも、僕は犯人の両側に座ればべつにやらなくてもいいんじゃないかと少し思った。
このパトカーは画期的な工夫だった。
■このパトカーはものすごい発明だった!
パトカーはうしろのドアを1度閉めると内側からでは開かない。
なぜかというと犯人を逃がさないためだ。
この工夫はいまでも使われていると思う。
このパトカーは今後もいろいろな人たちにしたわれていくだろう。

投稿者 koriyama : 11:12 | コメント (8)

No.307「教育資料館の教科書は全部寄付された物」

■明治9年の教育資料館の様子
登米の就学率がたかくて、義務教育じゃなく449人県最大の人数。
明治22年町の予算の48%を教育にかけていた。
明治8・9年に洋風小学校が盛んになった。
教育にかけられる熱意・意識の高さがわかるし、経済的に裕福な家庭が多かったと思われる。
■教育資料館の資料
教育資料館は明治21年に建てられた建物。
平成元年に保存修復作業を行っている。
明治以後の教育史、各時代の教科書も置いている。
懐かしい再現教室等も展示している。
■教育資料館の人に聞いた
とっても古い教科書で持っている人が少かった。
持っている人が少ないので集めるのが大変だった。
持っている人から譲ってもらった。
教育資料館に置いた。
■教育資料館の教科書はたくさんの人の善意によって寄付された物だった
音楽の教科書は折り込みが多かった。
表紙には人の絵が描かれていた。
カタカナで書かれていた。
古くて黄ばんでいて、セロハンテープで張られていた。

投稿者 koriyama : 11:11 | コメント (8)

No.306「登米町の洋風建築はレンガが使われていない」

■登米町の資料を見た。
登米町の洋風建築の建物は教育資料館と警察資料館である。
登米町の洋風建築にはレンガが使われていない。
教育資料館は明治21年(1888)に山添喜三郎氏が作りました。
旧登米警察署庁舎は同じく明治21年に山添喜三郎が手がけました。
■登米の洋風建築の構造
登米の洋風建築はレンガが使われなく木材を使ってる。
屋根は瓦を使用。
壁は洋風らしくするため白いペンキを使っている。
バルコニーが使われている。
■レンガが使われない理由
現在より流通が発達してなかった。
だから、できるだけ地元のものを使った。
■鉄も使われていなかった
バルコニーも木で作られている
材料がないのに洋風建築にこだわる登米の人はとても頑固だった
洋風建築に必要な材料がないのに造ったのはすごい。
洋風建築だったから今まで残ってた。
ガイドは一名につき2000円かかる。
登米町のガイドは町内のママさんがおこなっている。
一週間前にご予約が必要。

投稿者 koriyama : 11:09 | コメント (12)

No.305「旧水沢県庁舎は小学校としても使われたことがある。」

No.305「旧水沢県庁舎は小学校としても使われたことがある。」
■旧水沢県庁舎について詳しい方はこう語る
水沢県庁記念館は明治4年に建てられた。
水沢県庁記念館は明治8年庁舎が一関に移されるまで使用された。
水沢県庁記念館は県内の官公所建築を代表する貴重な建物です。
平成2年に明治22年ころの姿に複元し、水沢県庁館として公開しています。
■水沢県庁館は建物にこだわった
水沢県庁館の玄関は堂々たる造りで、入母屋造りと言います。
破風は狐格子で純和風ですが付属棟は洋風平屋建です。
水沢県庁館は洋風の意匠の中に和風の手法をとり入れた、日本独自の和洋折衷建設といいます。
水沢県庁館は一部分しか復元しなかった。
■水沢県庁館は昔、色々なことに使用された
水沢県庁記念館は明治9以降まで小学校として使用された。
水沢県庁記念館は明治9年以降まで裁判所として使用された。
水沢県庁館は明治9年以降まで老人福祉センターとして使用された。
小学校、裁判所、老人福祉センターは明治9年以降まで使用された。
■水沢県庁は色々なことにこだわった
水沢県庁館は明治4年に建てられ
水沢県庁は小学校や裁判所等に使用された。
水沢県庁は建物のあらゆるとこにすごくこだわった。

投稿者 koriyama : 11:08 | コメント (15)

No.304「教育資料館の建物には工夫がたくさんあった」

■教育資料館は旧登米高等尋常小学校だった
明治21年に建てられた。
当時は珍しい洋風学校。
多い時の生徒数は1000人もいた。
建物には木が多く使われていた。
■建物にある工夫
両端に六角形を半分に切った形の昇降口があった。
廊下は1階・2階とも吹き抜けで広く感じる。
屋根は寄せ棟造り、瓦葺だった。
正面に向かってコの字型。
■今の学校との違い
今はコンクリートがたくさん使われているが、この学校は木が多く使用された。(机・イス・各教室のドア)
校庭は砂利で遊べる位大きくなかった。
屋根は三角屋根で瓦が使われていた。
■たくさんの工夫があった教育資料館は特徴がある素晴らしい建物だった
吹き抜けで広く感じられる廊下。
正面を向いた白くて大きなバルコニー。
(コの字型に建てたのは、校舎全体を伺いしれたから。)
正面入り口にあるとても大きい門。

投稿者 koriyama : 11:07 | コメント (3)

No.303「旧警察署は、2階建て&バルコニーつきである。」

■旧警察署について
旧警察署は、宮城県登米群登米町にある。
明治22年に建てられて、昭和43年まで登米警察署として使われた。
そして、昭和63年に復元された。
旧警察署は、全体的にペンキでしあげられてる。
■なぜ、洋風建築なのか
警察署が建てられる前に、日本人が、外国へいった。
外国へ行った日本人は設計の勉強をしていた。
学校を卒業した後、日本へ帰ってきた。
警察署の設計をたのんだ。
■今の旧警察署は?
今は古くなり使われなくなった。
いがいに今では、機能的ではなかった。
貴重な洋風建築として残された。
その後、水沢県庁敷地と、建設された。
■今では素敵な警察資料館。
普通の警察署ではなくバルコニーがあるため今まで残されている。
昭和61年にも保存修理をうけた。
外見は、洋風だが構造は、和風であった。
今は、日本唯一の警察資料館となった。

投稿者 koriyama : 11:06 | コメント (5)

No.302「教育資料館は洋風と和風だった。

■教育資料館とは
洋風文化とは、洋風建築のこととするが、100%山添氏の設計です。
現在と違って流通が発達していなかったので地元にある資材を使った。
■教育資料館の建物のついて
純木造の二階建てで正面に向かってコの字型につくられている。
両端には六角形を半分に切った形の昇降口がある。
廊下は1階、2階とも吹き抜け片廊下式となっている。
■教育資料館の特徴
特徴的なのが2階バルコニーで校舎全体の中心的な位置にあり
シンボル的な役割を果たしています。
1階の窓には霜よけの庇が付いているのも特徴的です。

投稿者 koriyama : 10:51 | コメント (6)

No.301「登米は義務教育なのに児童数が県内最大だった。」

■教育資料館について詳しい人はこう語る
教育資料館は明治21年に建てられた。
生徒は全員着物を着て授業をしてる。
教育資料館の明治の教科書は太い字で書かれている。
教育資料館は窓に庇が付いているのが特徴的だった。
■教育資料館とは
教育資料館は義務教育だったのに生徒数が447人いた。
机やイスは木造で作られていて机は長くなっている。
バルコニーは2階にあり教育資料館のシンボル。
■金は手動でやっていた。
教育資料館は教育に熱心だった
教育資料館は小学校建設に多額の資金をかけたりした。
教育資料館は明治22年に町の予算の48%を教育にかけたりした。
この時代のころは裕福な家庭が多かった。
教育資料館の先生は何にでも生徒に熱心に教えていた。
■教育資料館は義務教育でも明治31年には500人を超え1000人なっていた
教育資料館建設に多額の資金をかけたのは洋風にするための材料がなかったため建設に多額の資金をかけた。
教育資料館は明治31には生徒数が1000人超えていた。
教育資料館は忠実に洋風に復元してある。
町の予算を48%教育に使ったのは登米だけだった。

投稿者 koriyama : 09:23 | コメント (21)

No.635「当時の警察官の仕事は消防も含んでいた。」

■警察資料館の人はこう語る
はい、当時の警察官の仕事は消防も含んでいました。
それは明治2(1869)年~5(1872)年 の事です。
■詳しく調べてみた
明治2(1869)年~5(1872)年 公設消防
受負制度、府県の直営あり、必ずしも全国制一化された組織体制といえるものではなかった。
■この頃の現場指揮はすべて警察の手に委ねられていた
明治13年(1880)年東京府では消防を東京警視庁から分離し、内務省直轄の消防本部(現東京消防庁の前身)を設立するという画期的な出来事があった。
これが、現在いわれている『官設消防』制度の始まりであり、これをもって近代消防制度発祥とする説が一般的である。
消防を現場指揮する時の警察官の服装。
当時の警察官の服装と同じ。
消防を現場指揮する時の警察官は特別の服装が無かった。
■当時の警察官の仕事は消防も含んでいた
警察官が消防をするのは明治2(1869)年~13(1880)年 。
警察官が消防をするのは効果があんまり上がらなかった。

投稿者 koriyama : 09:16 | コメント (10)

No.1634「宮城県の旧登米尋常小学校で最も生徒が多かった時は、2000人」

■旧登米尋常小学校とは・・・
尋常小学校とは、宮城県北部にあり、明治21年に有名な建築家、山添喜三郎が設計した和洋折衷の木造校舎である
校舎としての役割が終わった後も重要文化財として、今も保存されている
尋常小学校で最も生徒が多かった時は、2000人を超したと言われている
■なぜ、2000人もいたのか?
1つは、登米町は経済的に裕福な家庭が多かったため、子供を学校に通わせる人が多くいた
2つ目は、明治30年に東京で戦争があったため、東京の児童が宮城県に疎開してきた。その児童たちが尋常小学校に来たため、明治30年、少しの間であるが、生徒が2000人になったと言われている
■疎開してきた児童たちは・・・
家族とは離れてしまったが、空襲などの心配もなく、とても良い生活だった
東京にいた時は、配給される芋やかぼちゃなど、ろくな物しか食べてなかったため、小学校の給食のあまりのおいしさに涙を流しながら食べる生徒も少なくなかった
■疎開してきた児童は不幸と幸せの連続だった
尋常小学校で生徒が2000人になったときは明治30年
その理由は、登米町には経済的に裕福な家庭が多かったため、子供を学校に通わせる人が多くいた。
もう1つは、東京で戦争があったため、児童が宮城県の尋常小学校に疎開してきた。
小学校が造られた明治21年は生徒が300人くらいしかいなかったが、明治30年には子供を学校に通わせる大人が増え、東京から児童が疎開してきたため、生徒が2000人になった。

投稿者 koriyama : 09:15 | コメント (9)

No.1633「教育資料館には、長い間同じものを使っていた教科書が残っている」

■いつ頃からどれくらいの間使われていたのか
約40~50年前後
大正時代の初めごろから、昭和時代初期まで使われた。
尋常小学校で使われていた本。
■このような教科書が使われていた
「ハナハト読本」
「尋常小学国語読本」
ずっと同じものを約40~50年間使っていた。
■教科書の内容は
「ハナハト読本」は、最初にハナ(花)とハト(鳩)という言葉を覚えるのでこの本の名まえになった。すべてカタカナで、簡単な言葉から覚える本。
「尋常小学国語読本」は、国語の本で、今の小学校は学ばないような難しい漢字がたくさん書いてある本。
■長い間使われていた本は、幅広い内容だった
「ハナハト読本」はとても簡単な物ばかりの内容だった。しかし、「尋常小学国語読本」は、いきなり中学生でもわからない漢字が出てきてとても難しかった。
その後新しい本が作られて使われなくなった。ちなみに、小学読本などは欧米の教科書を参考に作られた。

投稿者 koriyama : 09:14 | コメント (9)

No.632「登米警察署は明治中期の擬洋風建築として貴重な文化遺産となっている。」

■登米警察署について調べてみた。
登米警察署は明治22年に建てられ、昭和43年まで使われていた。
2階に吹き抜けのバルコニーがある。
昔の牢屋は木で出来ていた。
■牢屋について
牢屋はほとんど木でできていた。
昔の牢屋は木でできていていた理由は、鉄筋もコンクリートも無い時代で、当時、地元で調達できる資材は木材のみだった。
■登米警察署の歴史
登米警察署は昭和43年まで使われ、古くなり機能的ではなかったため、その後は水沢県庁記念館に建設したがさらに老朽化したため現在の警察署になった。
■昔の警察の仕事
昔の警察の仕事は警察だけではなく消防の仕事もやっていたことがわかった。

投稿者 koriyama : 09:13 | コメント (6)

No.631「登米県という県があった。」

■登米のことが書いてある資料にはこうかいてある。
登米県は明治2年8月に合併してできた県であると書いてある。
■登米県はこうしてできた。
宇都宮藩管下におかされた栗原県の一部と、旧土浦藩取締地にある涌谷県という県をあわせて登米県となり、明治三年九月二十八日、石巻県の桃生・牡鹿、本吉三郡と登米県の志田・遠田・登米・栗原四郡を合して登米県とした。
■登米県は宮城県になる県だった
登米県は、明治四年に分割され、胆沢県と合併し、一の関県となった
ところが、翌十二月十三日、一の関県を水沢県と改称して、仙台県と、合併し、宮城県となった。
■登米町は所属する県が四回変わるというすごい所だった
今の宮城県の北のほうに住んでいる人は、宮城県のほうに入るか、岩手県のほうに入るかということがある地域なので、県名がころころ変わったりして、大変だとおもった。

投稿者 koriyama : 09:12 | コメント (6)

No. 630「旧登米高等尋常小学校校舎の廊下は外にある。」

■確かに廊下は外にあった
尋常小学校は洋風建築の建物で明治21年10月に造られました。
校舎は全て木造の二階建てで、正面に向かってコの字型に造られていた。
廊下は、校舎の内側にあり二階には吹き抜けのバルコニーがあった。
尋常小学校とは宮城県登米町にある小学校のことです。
■尋常小学校は山添喜三郎が設計した
山添喜三郎とは、1843年に新潟県で生まれた近代建築のパイオニアで、宮城県の建築技術の基盤を固めた人物。
山添喜三郎はヨーロッパで、約一年間西洋建築を熱心に勉強し日本館のロンドン移築にも携わりました。
喜三郎の仕事ぶりは、瓦一枚一枚までこだわるほどだった。
■雨や雪の時はどうしていたか
廊下は、雨風が射し込みとても寒く冬には床が凍って、とても危険でした。
一階の窓には霜よけひさしがあり、すこしは冬の対策がされていました。
■尋常小学校はすごい人の造ったすごい小学校だった
尋常小学校は造られてから百年も経過している。
国指定重要文化財に指定されている。

投稿者 koriyama : 09:11 | コメント (4)

No.629「教育制度の意味が住民に伝わらなかった」


■教育制度とは
教え育てる仕組みの事で生徒が1000人もいて教師の人はいろいろと教えるのが大変だったのではと、思った。
■住民は教育制度の意味が分からなくて就学させる人が少なかった
住民は教育制度の意味が分からなくて不安に思った。
だから進んで就学させようとする人があまりいなかったため少なかった。
■教育制度が伝わらなかった理由
明治21年に初めて建てたから
町の人たちも開校した教育制度の意味がよく分からなかったんじゃないのかなと思った。
■明治の教育制度のスタートは厳しかった
明治21年に登米に初めて学校を建築し、尋常小学校として開校した。
明治時代に様々な面で洋風がとり入れられ、尋常小学校のバルコニーも洋風であった。
当時には9教科あり、修身、國語、算術、社会、理科、図画、唱歌、体操、裁縫という教科であった。
しかし実際には教育制度の意味が住民に伝わらなかった。

投稿者 koriyama : 09:11 | コメント (11)

No.628「登米の歴史資料館は、個人の寄付で作られた。」

No.628「登米の歴史資料館は、個人の寄付で作られた。」
■登米と渡辺氏
懐古館とは、歴史資料館みたいな所で、伊達家のものなどを展示してある所である。
昭和37年4月に登米懐古館名誉館長に拝命された。
伊達家のものをいろいろな所から収集し懐古館に寄付をした。
■収集した品々とは・・・
いろいろな藩から伊達政宗への手紙や刀、よろい、かけじくなど他にもいろいろなものがあった。
懐古館にあるものの貴重な文化財は約150種類くらいある。
懐古館にある文化財は、ほとんどが懐古館にしかない。
■渡辺政人氏はすごい人だった
渡辺政人氏は懐古館の館長だけでなく、色々な会社の会長や総裁、社長などにも拝命されていた。
渡辺政人氏が寄付したものは、懐古館に展示されていて、その中のほとんどは、文化財だった。
■懐古館に寄付をした登米の渡辺政人氏は文化を伝えてくれる人だった。
渡辺政人氏が懐古館にいろいろなものを寄付してくれなかったら今の懐古館がなかった。
渡辺政人氏は今の懐古館を作ってくれたすごくいい人だった。

投稿者 koriyama : 09:10 | コメント (6)

No.627「登米町の能舞台の松の絵には岩絵具という物が使われている」

■森舞台とは
森舞台とは宮城県登米町という『みやぎの明治村』と呼ばれる所にある、6月と9月に能が舞われている所。
6月と9月に使われるだけではもったいないので、たまに落語も行われているらしい。
今年、結婚式の会場としても使用された。
約1億9900万円もの費用で建設された。
■岩絵具の特徴
岩絵具の1番の特徴は、塗られてから200年も持つ事。森舞台はまだ平成8年に作られてから8年しか経っていないので200年後どうなっているのか見てみたい。
色は、明るいような暗いような不思議な色をしていた。
■森舞台の建設に関わった人達
岩絵具を使用し、松の絵を描いたのは「千住博(せんじゅひろし)」という人。
森舞台を建築したのは、建築家「隈研吾(くまけんご)」という日本建築学会から賞を受賞した人。
■森舞台に使われている岩絵具はとてもすごい物だった
岩絵具とは200年も持つ、とてもすごい特徴を持った絵具だった。200年後までがとても楽しみだ。生きていたら見に行きたい。
岩絵具のあの色は、他の絵具には無いようなとても不思議な色だった・・・。
200年後までずっと、あの色が保たれるのかと思うと、とても楽しみだ。

投稿者 koriyama : 09:09 | コメント (13)

No.1626「旧登米尋常小学校の校舎造りをコロニアル・スタイルという」

No.1626「旧登米尋常小学校の校舎造りをコロニアル・スタイルという」
■旧登米尋常小学校に詳しい方はこう語る
旧登米尋常小学校は明治21年10月に、二年半の歳月をかけて落成した
建設費は当時の金額で3500円、今の金額で8000万円。
生徒数は開校した当時で300人前後、最も多いとき(明治30年)には2000人をこえた
■コロニアル・スタイルとは・・・
アメリカ南部に伝わる欧米の建築様式である
バルコニー、吹き抜け廊下などにそれが見られる
山添喜三郎が洋風らしいデザインを設計した
■コロニアル・スタイルの効果は?
吹き抜け廊下のため、教室はとても明るくなった
欧米式のバルコニーは、学校のシンボル的存在となった
先生方の監視場や生徒たちの遊び場にも利用された
夏はとても暑く冬はとても寒かったため、具合が悪くなる生徒も多かった
■コロニアル・スタイルは機能性にすぐれた建築様式であった
旧登米尋常小学校は、明治の洋風学校を代表する建造物として昭和56年、国の重要文化財に指定された
平成9年には保存修復作業を行い、当時の教科書やつくえ・いす、なつかしい教室等を展示している
現在は教育資料館となり、多くの人が足を運んでいる

投稿者 koriyama : 09:08 | コメント (12)

No.625「明治の留置所は独房ではなかった」

■実際に体験してみた
当時は木造で作っていて留置所の中は、すごく広かった。
牢屋の中は、天井が高くはじに布がおいてた。
隅には、当時のトイレがありビックリした。
■一人ではなかった
独房(一人)ではなく何人か一緒で留置所にいた。
脱獄する人がいるかなぁと思って窓を見ると、高さがあり大きさはあんまり大きくありませんでした。
■ちょっと不安・・・
当時の留置所は、隅にトイレがあり夏になると留置所の中は、すごく臭かったらしい。
実際に留置所の中に入ると、ちょっとにおいがした。
それで、「臭い飯」という言葉も生まれた。
■明治の留置所は環境の悪い雑居房だった
悪い事をしたのでしょうがない。
しかし、部屋の中にトイレがあるということは寝る時も臭い、当時の悪い人は、ちょっとかわいそうだね。

投稿者 koriyama : 09:08 | コメント (12)

No.624「森舞台に使われている岩絵の具は100年以上もつ」

■森舞台とは
森舞台とは能を舞う所で、今年の6月には結婚式も行われた。
舞台には何流と言うものがあって森舞台は大倉流である。
松の絵が描かれている森舞台は隈研吾さんが作った。
■松の絵を描いた作者と絵の具の名前
舞台に描かれている松の絵を描いた人は千住博さんという人。
岩絵の具は森舞台に描かれている松の絵に使われた絵の具である。
■岩絵の具で描かれた松の絵
岩絵の具のとくちょうはあかるいようなくらいような不思議な色である。
岩絵の具の1番すごいところは、舞台に描かれている松の絵が100年以上ももつことである。
■岩絵の具の最大の特徴
岩絵の具の1番すごい特徴は、100年以上持つという所である。
本当に持つのか分からないので、100年後できたら自分で見に行きたい。
岩絵の具の色は、少し濁っているような本当に不思議な色だった。
私には、あまりきれいな色には見えなかった・・・・・。

投稿者 koriyama : 09:07 | コメント (6)

No.623「昔の小学校の机のふたを開けると物入れになっている。」

■このことに詳しい社会科の先生に聞いた。
「これはなんですか?」
「これはですね。教科書入れですね。」
「そうなんですか。でも9教科全部入るんですか?」
「入ると思いますよ。でも、1日に9教科全部あるとは限らないですけどね。」
■そして、黒板の下には教壇もあった。
実際に上がってみると、そんなに高いという感じはしなかったが、教室全体が、一望できた。
それに、何故か大きいそろばんがあった。上って教室を見わたすと、偉くなった気がした。
■自分の考え
机のふたをあけると、教科書入れになってるなんて、すごくおもしろい発想だと思った。今の机もあんな風になれば楽しいと思った。
でも、2人で1つの机を使うのは、あんまり、よろしくないと思う。
教壇に関しては、今もあんな物があればいいなぁと思った。
昔の教室はおもしろみがあって、楽しかった。
■教科書が入る机や、教壇は、今には無い凄いアイディアだった
私もあんな机で、勉強してみたいと思った。
今回、尋常小学校に行ってみて、明治の学校について、いろいろなことが分かり、とても勉強になった。

投稿者 koriyama : 09:07 | コメント (12)

No.622「建築家の山添喜三郎は屋根の上で一夜を過ごしたことがある。」

■山添喜三郎のことが書いてある資料のエピソード
天保十四年九月十五日新潟県角海浜に生まれ、とても腕のいい天才大工で仕事には極めて忠実な人だった。その結果、工事に対してはずいぶん厳しかった。
ある日検査のため屋根に上がった時の出来事で、屋根の上で一夜を過ごすことになってしまった。
■山添喜三郎はこうして屋根の上で一夜を過ごすことになった
工事の厳しさから山添喜三郎に恨みを抱く者がいて、検査のため梯子で屋根に上がったところ、梯子を外され下に降りられなくなった喜三郎は、その日の夜、屋根の上で一夜を過ごすことになった。
■山添喜三郎はすごい建築士だった
山添喜三郎が建築した登米警察署や水沢県庁は、喜三郎がいろんな人に恨まれながらもがんばって造ったかいがあり、今は歴史資料館になり観光客に親しまれている。
■山添喜三郎は建築に人生をかけたすごい大工だった
山添喜三郎はとても腕のいい大工で、工事にはとても厳しかった。
検査のため梯子で屋根に上ったときに、梯子をはずされ降りられなくなり、その夜屋根の上で一夜を過ごした。
山添喜三郎が造った登米警察署や水沢県庁は今、歴史資料館になっていた。

投稿者 koriyama : 09:06 | コメント (5)

No.621「登米教育資料館には、超でかい張子のかにがある」

■登米教育資料館とは?
登米教育資料館とは、宮城県の『登米町』という所にある。
登米町は、宮城の明治村と呼ばれるだけあって古い町並みがならんでいる。
その一角にあるのが登米教育資料館である。
そして、2階のはじっこの教室に、かにはいた。
■近くにあった資料には、こう記されていた
運動会で使われたものらしい。だが、いつの物かという資料はなかった。
ちなみに、これは、その時の6年生が制作したものらしい。
それに、見た目的にも、だいぶガタついていたり、指で空けたと思われる穴がけっこう空いてたので、結構昔のものと考えられる。
■どうしてかになの?
どうしてかになの?ということで、係の人に聞いてみた。
「展示している分の資料には無いのだけど、かにといっしょに、鬼のはりこ、船の張子も作っていたそうだよ。あと、なんでかににしたのかという資料は、無いけど、あくまで私の予想だけど、やっぱり、おいしいものが好きだったんじゃないかな」と、笑顔で答えてくれた。
■いつの時代も、子供はおいしいものがすきだった
さっき紹介した、『どうしてかににしたのか』ということで、係の人は、「おいしいものが好きだったんじゃない?」と、答えてくれましたが、他の人にもきいてみた。すると、こう答えてくれた。
「作りやすそうだからじゃない?」と、分かりやすく答えてくれた。
答えてくれた皆さん、ありがとうございました。
とても勉強になりました。

投稿者 koriyama : 09:05 | コメント (7)

No.620浅野知事が名付けた能舞台がある。


■森舞台の人に聞いてみた
森舞台は平成8年に建てられた。
森舞台は作るのに1億9000万円かかった。
森舞台は全て「青森ひば」で造られている
森舞台の下には「瓶(壷)」がたくさんある。
音を響かせるためにある。
森舞台の板壁に描がれている絵は「松」と「竹」である。
絵に使われている絵の具は「岩絵の具」と、いって100年もつ。
能をやる人は柱を目印にして舞台に出る。
6月と9月に能が行われる。
森舞台は落語や能もやっている。
今年4月に森舞台で初めて結婚式があった。
森舞台は地域の人達のおかげで大切に保護されている。
■なぜ森舞台と名付けられたのか
森舞台は周りには竹や森林がある。
森舞台は「開かれた文化施設」とも言われている。
それで、「森舞台」と名付けられた。
■森舞台とは名の通りだった。
実際に行ってみると、周りは竹や森林で囲まれている。
下へ降りていくと着物やお面が飾ってある展示室もあった。
その他に、森舞台の向かい側にはガラス張りの茶室もあった。
森舞台は青森ひばで造られているので、ひばの香りがする。
■森舞台とは
森舞台は宮城県登米郡登米町寺池上町42番地にある。
森舞台は平成8年に建てられた。
建築費用は1億9000万円かかった。
森舞台は全て青森ひばで造られている。
能舞台の向かいにあるガラス張りの茶室もある。
1階にはお面、着物が飾ってある展示室もある。
6月と9月には能や落語も行われている。

投稿者 koriyama : 09:05 | コメント (6)

No.619「藩政時代は武家しか能ができなかった。」

■登米能とは
藩政時代から伝わる登米能をはじめる。
岡谷地南部神楽や登米囃子など伝統芸能が盛んである。
武家たちはどのような能をしてたか。
森舞台は浅野知事が名づけた。
森舞台はいろいろな人たちにつかってほしくて大切にされた。
■藩政時代とは
最初は藩政時代はなんだろうと思いました。
藩政時代の意味がわかんなかったので意味を調べたらそれは明治時代のことでした。意味を調べてこういうことなんだ。と思いました。
森舞台に大切なことやいろいろ教えてもらってまとめができてよかったです。
また、行くきかいがあったら行きたいです。
■森舞台はいろいろなことがある
舞台の絵はいわ絵の具を使っている。
このいわ絵の具は100年も、持つ。
■舞台では落語もやっている
舞台を造った人は能けんごさんという人。
舞台は小学生も使っている。

投稿者 koriyama : 09:04 | コメント (9)

No. 618「登米にバルコニーのある洋風小学校がある。」

■尋常小学校の洋風建築とは
尋常小学校とは宮城県登米町にある明治6年にできた登米町初めての小学校である。
今は教育資料館となっている。
バルコニーがある。
吹き抜け片廊下がある。
六角形を半分に切った形の昇降口がある。
■なぜ、旧登米尋常高等小学校は洋風建築なのか
当時、洋風小学校が盛んに建てられたからである。
設計者が欧米の建築様式を取り入れて設計したことによる。
洋風の明るさと和風の品格が程よく調和している。
校舎はコの字型にしたことにより、校舎全体を伺い知ることができる。
■設計者について
旧登米尋常小学校は、山添喜三郎が設計した。
仙台の工事をとおして、建築家の山添喜三郎の手腕力量が高く評価され、宮城県の建築主任として、県庁職員に迎えられた。
■バルコニーはシンボル的存在
当時の旧登米尋常高等小学校のバルコニーは、洋風にしたことにより、校舎の中央にあって全体のシンボル的存在となっている。
ちなみに、郡山中のシンボルは”カリオン塔”である。

投稿者 koriyama : 09:04 | コメント (12)

No. 617「森舞台では、能をやっているだけではない。」

■森舞台に詳しい人に聞いてみた。
森舞台とは、宮城県の登米町にある、能や、いろいろな事をするのに造られた舞台だ。
森舞台では能だけではなく、落語や結婚式をやっている。
たまに、小学生がクラブ活動で利用している。
■結婚式や落語は本当にやっていた
結婚式は何回かやった事があるらしい。
結婚式は、去年、式を挙げた人がいる。
落語は、毎年6月と9月に能と一緒行われている。
■森舞台の絵
森舞台の板壁には、「岩絵の具」という絵の具で、絵が、書かれている。
この岩絵の具は、100年も保つ。
板壁には、松と竹の絵が、書かれている。
舞台の下には、マイクがわりに、「瓶(つぼ)」がたくさんおいてある。(瓶はちゃんと音が響くところにおいてある。)
■いろいろなことをやっている森舞台はすごい!
能舞台では結婚式や落語もやっている。
小学生も使っている。
能や落語は、毎年6と9月に、2500円で行われている。
森舞台はみんなに能を知ってもらうため大切にされている。
1階には、展示室があり、そこには能をするときに使う「能面」などが展示してある。

投稿者 koriyama : 09:03 | コメント (4)

No.1615「能舞台で結婚式が挙げられる。」

■森舞台に詳しい方はこう語る
森舞台は宮城県の登米町にあり、能を演じるための舞台である。
もとは、高橋さんという方の家だったが、あとつぎがいないため敷地を提供してもらい、その敷地が舞台になった。
森舞台では、薪能を中心に上演している。
■なぜ結婚式をしたのか
能をやるだけでは、舞台があまり使われないので結婚式をやってみた。
今年の6月にやった。
1時間900円でかりられる。
■森舞台は、地域の人々に愛され続けていた
森舞台は、ようきょく会という人たちが受け継いでいる。
地域のおとしよりも、若い人に能を知ってもらおうと、大切に受け継いできている。
■森舞台は能以外もやる現代的な能舞台だった
普通の能舞台は能しかやらないが、森舞台は落語もやるようになり、ギネスに載った。
森舞台は色々な人に色々な使われ方をする、他とは違う舞台だった。
能舞台といえば、能だけをするところだと思っていた。
結婚式も挙げるので現代人が忘れている和を身近に感じられていいと思う。

投稿者 koriyama : 09:02 | コメント (10)

No.614「明治時代小学校に就学させようという親は少なかった」

■初めての小学校が開校する
明治時代6年(1873年)6月、登米で最初の小学校、登米郡寺池村小学校が養雲寺を開校した。
当初は、新しい教育制度の意味が住民に充分には伝わらなかった。
女の子は、家の手伝いや家事があったので学校にいれる余裕などなかったそうだ。
また、授業料5000円だったので就学させる人は少なかった。
■学校の歴史についてこう語る
学問に関する最初の記録は、戦国の混乱が治まり、治水開墾事業も一段落した。
明和元年(1764年)登米伊達家八代村良の出した「学問の励み武芸を嗜むべき」
はっきりとした記録はないが、寺小屋や私塾なども開業していた。
しかしその後にはあいつぐ災害、凶作、飢餓などによって生活がますます苦しくなったと言う。
■就学率が高く
明治9年だんだん就学率が高くなっていき義務教育では、なかったけれども477人と県内最大となった。
住民にも少しずつ教育制度が伝わった。
明治31年、1888年には、1000人。戦時の学童疎開時には、2000人にもなった。
■しかし登米はすごい町だった
就学率が高くなるにつれ、読書、作文、習字、算術が、学習面になり、昭和39年1月には登米小・中学校、完全給食になった。
それが今までの間、少しずつ少しずつ、良い方向にと今に築いたのだと私は思う。

投稿者 koriyama : 09:01 | コメント (13)

No.613「登米の小学校は、明治9年、就学率が県内最大だった。」

■登米に詳しい資料にはこう書いてある
登米は宮城県石巻市にある明治2年8月宇都宮藩管下におかれた栗原県の一部と旧土浦藩取締り地で合わせてできた県である。
登米尋常小学校とういうと、明治に21年に造られた洋風建築を代表する建物である。
明治9年に登米高等尋常小学校は生徒数477人を数え、県内最大になった。
就学率はこうして最大になった。
小学校建設に多額の資金をかけたり、明治22年には町の予算の48%を教育にかけたりした。
■また、卒業者数を見ても教育にかける熱意・意識の高さが分かる
経済的に裕福な家庭が多かった。
義務教育ではないのに就学率が県内最大と言うのはすごいことだった。
明治9年(1866年)登米尋明常小学校の就学率は県内最大になる。
町は教育に対して多額の資金をかけた。
また舟運などが盛んだったため裕福な家庭が多かった。
■開校当初とその後について
開校当初は養雲寺での寺子屋でその後水沢県庁庁舎に移った。
さらに生徒数の増加にともない、明治21年(1881年)にこの尋常小学校の校舎が建てられた。
多いとき日は、生徒数が1000人を超えたときもあるという。

投稿者 koriyama : 09:01 | コメント (5)

No. 612「山添喜三郎はウィーン万国資料館に大工の棟梁として参加した。」

■山添喜三郎に詳しい方はこう語る
建築家山添喜三郎は、天保十四年九月十五日に新潟県西蒲原郡角海浜村に生まれたとされている。
大工として建築を志し、腕も相当なものであったらしく、明治5年(1872)年オーストラリアのウィーンで開催された万国博覧会に大工の棟梁として政府から出張を命じられた。
■尋常小学校を手掛けた人は・・
尋常小学校を手掛けた人は山添喜三郎によるもので、明治の洋風事務所建築としては極めて珍しいもので、昭和62年県の重要文化財に指定されました。
構造は木造二階建て下見板張り白ペンキ塗り寄棟の瓦葺で突き出した玄関は上下とも吹き抜けで二階部分はバルコニーとなっています。
■語り伝えられるエピソード!
屋根に使う瓦は1枚1枚重さを測り、これを一夜水に漬けて、翌日又重さを測って給水量を調べ、一定以上の量目の瓦はすべて不合格としてハネたといわれ、そのため納入する瓦屋は次々と倒産したと伝えられている。
工事も洋風建築洋式が多く、工夫になれていない大工の苦労もなみたいていではなかった。そのため予想以上の手間ひまがかかり、工事請負をした大工棟梁は家財を売り払っても借財が残り、ついに夜逃げ同様にこの地を立ち去らなければならなかった。
■山添喜三郎はどういう人?
山添については、数々のエピソードは、単に彼の仕事ぶりを非難するものではなく、彼が職務に忠実あり、校舎建築の重さをよく自覚して、後世に残る立派な建物を造る事にいかに専念したかを伝えるもので、むしろ当時の請負業者や職人に理解されなかったことから起きたトラブルであり、現在町民はむしろこのような彼の妥協を許さない態度によって、はじめて今日まで残る堅牢優美な校舎できたものであるとして敬意と感謝を込めて語り告がれているものである。

投稿者 koriyama : 09:00 | コメント (3)

No.1611「山添喜三郎は・・・・みんなに嫌われていた」

■山添喜三郎の事に詳しい方はこう語る
山添喜三郎は材料にこだわった。
材料を作る会社を倒産させるなど材料に対する思いが、人一倍凄かった。
それで会社の人に嫌がられるようになっていった。
屋根の上に上がっていたら材料を作る会社の人に梯子を取られて屋根の上で一夜を過ごしたこともあった。
■なぜ、喜三郎は嫌われていったのか
瓦にもこだわった。
瓦は、1枚1枚重さを測りそれを水につけて一夜漬けにして、翌日又重さを計って吸水量を調べて一定以上の量目瓦はすべて不合格とした。
そのため納入する。瓦屋は次々と倒産したと伝えられている。
■山添喜三郎の一生
山添喜三郎は1843年新潟県に生まれた。
喜三郎は31歳松尾伊兵衛とともにウイーン博覧会の日本館造営を命ぜられ渡欧した。
喜三郎は1932年に亡くなった。
■喜三郎は頑固親父だった
どんな小さなミスもけして見逃さなかった
お酒とラーメンが大好物だった。
喜三郎は偉大で、すごいひとだった
喜三郎は本当はとっても優しい人だった。娘にとっても甘かったという。
厳しかったが、そのため今も明治の建物を今も見ることができる。
建物は登米の誇りだ。

投稿者 koriyama : 08:59 | コメント (13)

No.610「明治30年に登米の尋常小学校は生徒が2000人いた。

■昔の学校について調べた。
机は全部木でできていた。
校長室のおいてある物は洋風の造りだった。
机を深く打ち込み、ねんど、砂、じゃり、石灰を混ぜ合わせていた。
このために地震や、洪水に耐えた。
■昔の学校の生徒数
昔は、1200人ぐらいの数だった。しかし、明治30年には、2000人を超えた。東京で
戦争があったために東京の生徒たちが宮城の学校に来た。そのために登米町の学校に来た。登米は経済的にも裕福だったので学校に通わす事ができたために、生徒数が増えていった。
■学制実施の大要
全国で中学校が二百五十六、小学校が五万三千七百六十の学校を設けるとした。
当時の教育制度はフランスの制度を参考にてできた。
最も力をいれたのは小学校であった。小学は満六才から、入学させた。
■疎開した児童たちは
家族とは離れたが、空襲などの心配もなく良い生活だった。
東京にいたときは、配給される芋や、かぼちゃなどの物しか食べていなかったために、
小学校の給食のあまりのおいしさに涙を流しながら食べる生徒も少なくなかった。東京からは、800人が疎開してきたために、2000人になった。

投稿者 koriyama : 08:59 | コメント (5)

No.609「宮城県の登米町旧登米警察署の留置場は、木造である」

■旧登米警察署に詳しい方はこう語る
当時は、鉄節もコンクリートもない時代だったことと、当時地元で調逹できるものが木材しかなかった
建築者の山添喜三郎は、素材などのものにこだわっていた
旧登米警察署は今でも残る建造物である
■留置場の構造と中での暮らし
留置場の中は、石や木材などが使われ、トイレなども中にあるすばらしいできであったが、しかし部屋数が少ないため、留置場一部屋に付き何人かではいっていた
留置場のなかは、逃げるすきまもなかった
■警察署の中は
当時の面影を残している警察署は、中が少し壊れている
今も色々な人が来る大事な建造物である
■木造でできている警察署歴史に残るものだった
1889年(明治22年)に山添喜三郎の手で登米警察署ができる
木造の留置場は狭かったが一人一人入ることができなかった
しかし1968年(昭和43年)新庁舎ができ署としての役割を終えた

投稿者 koriyama : 08:58 | コメント (11)

No. 608「登米教育資料館は昔、電気がついていなかった」

■登米教育資料館について調べてみた。
昔の人はそろばんなどで算数をしていた。
昔の教室はほとんど木でできていた。
教室の中に角火鉢があった。
■教室の中はほとんど木でできていた
教室のいすやつくえなどは 木でできていた。
他にも角火鉢というものがあり教室の中を暖めて勉強していた様子がうかがえる。
昔の机の引き出しは今のようなものではなく木のふたになっていた。
■昔の教室について
昔の電気は豆電球みたいなのだった。
いすや机などは全て小さかった。
教室の広さは今と同じくらいだった。
■今と昔の教室の違い

投稿者 koriyama : 08:57 | コメント (6)

No.607「明治の小学校は、9教科あった」

■明治の小学校とは・・・・・・
明治六年(1873)六月宮城県、登米町で最初の小学校登米郡寺池村小学校が、養雲寺を校舎に開校した。
明治八年(1875)11月町村合併とともに、寺池村小学校は第一番小学校になった。
それから4年後には、登米小学校になり、さらに8年後には、登米高等尋小学校になった。
■どんな科目があるのか
修身、国語、算術、地歴、理科、図画、唱歌、体操、裁縫がある。
今現在は、国語、算数、社会、理科、体育、図工、総合、生活だ。
■それぞれどのくらい授業数があるか
修身は、1から6年まで2回、国語は、それぞれ違うが、平均で10回。
算術も、それぞれ違うが、平均で6回。
地歴は、平均で1から3回。
理科は、平均で1から2回。
図画は、1から6年まで、1回。
唱歌は、平均で1から4回。
体操は、平均で1から4回。
裁縫も、平均で1から4回だった。
■実際に行ってみた
実際に行ってみると・・・・。
一階展示室に実際に展示してあった。
やはり9教科あった。

投稿者 koriyama : 08:57 | コメント (12)

No.606「明治時代の教室の中の物品はほとんどが木制の物だった。」

■おもに木が、使われたもの
イスや机、教室に入る時の戸など。
教室の外では、廊下、建物を支えている柱、さくなど。
ちなみに、当時の机には、引き出しというものはなく、机の上のふたを開けて、教科書などを入れていた。
■教室の中には角火鉢というのもあった
やはり、この角火鉢も木製だった。
角火鉢とは?四角形で中に、炭火などを置き、部屋などを温める物。
冬には、この角火鉢で温まりながら、一生懸命勉強していたと、言われている。
■昔の校長室は?
当時の校長室は、普通の教室よりかなり小さかった。
やはりだいたいの物は、木製だった。
関係はないが、微妙に校長の部屋の銅像が、「野口英世」に似ていた。
昔、校長先生は、あんな小さな教室で、仕事をしていたんだと思う自分であった。
■昔の物品は木製が多かった
昔、イスや机やドア、柱やさくなど、木製の物が、多く使われていた。
当時、イスや机が小さかったり、机の引き出しがなかったりと今とけっこう違うところが、あった。
昔冬は、角火鉢という火鉢で、あたたまりながら、一生懸命勉強していたと言われている。
当時の校長室にも、多少は、木製の物が、置いていた。それと、以外と小さかった。

投稿者 koriyama : 08:55 | コメント (6)

No.605『森舞台』のステージはスピーカーになる。

No.605『森舞台』のステージはスピーカーになる。
■『森舞台』に詳しい方はこう語る
『森舞台』とは宮城県登米町にある伝統芸能伝承館である。
藩制時代(江戸時代)から伝わる盛んな伝統芸能の活動拠点として、建設されたもの。
ステージは人が動くと響くように設計されている。
■なぜステージが響くか
ステージとステージに行くまでの廊下の下にいろいろな方向を向いた、直径40cm~50cmほどの瓶が計13個、三分の一ほど埋って置いてあった。
そのつぼが人が動いた振動で音を響かせてスピーカーの役目をしていた。
■昔の人の知恵が今でも大切に受け継がれていた
『森舞台』は隈研吾さんが建築。1997年に日本建築学会賞を受賞している。
長年、町民の手で大切に受け継がれている。
ステージには千住博さんが描いた松の絵があり「いわ絵の具」と、いうものを使っていて100年もつ。
落語などもやっていて、結婚式は1時間900円でできる。
■『森舞台』の縁の下の力持ちがステージをスピーカーにしていた
ずっと昔、能舞台が作られたころは当然スピーカーもアンプも電気もなく、電化製品が何かもわからない状態にもかかわらず、瓶をスピーカーがわりに使っていたことはすごいと思った。
今までの経験やかんで現在と同じ原理ものを作ってしまった昔の人の知恵は現代の私たちをも感動させる”力“を持ったすばらしいものだと思った。

投稿者 koriyama : 08:54 | コメント (10)

No.604「昔、瓦屋が次々と倒産した時があった。」

■山添喜三郎に詳しい資料にはこう書いてある
建築家の山添喜三郎は天保十四年九月15日に生まれた。
山添喜三郎は仕事には極めて忠実で工事に対してとても厳しくそのせいでこのようなエピソードがある。
■こうして瓦屋が倒産した
昔、屋根に使う瓦は1枚1枚重さを測り、一夜水に漬けて、翌日又重さを計って吸水量を調べた。
一定以上の量目の瓦はすべて不合格とされた為、納入する瓦屋が次々と倒産した。
■仲間の大工について
山添喜三郎の仲間の大工の佐藤朝吉は、同二十年登米高等尋常小学校校舎の新築工事に当たり先輩の三嶋秀之助と共に建築工事の大工請負となった。
生涯の大事業として心魂を注いで請け負った登米高等尋常小学校の校舎は落成した。
朝吉は貸金支払いなどで、その財を尽くしたため朝吉は夜逃げをした。
■旧登米尋常小学校には瓦屋と大工の悲しい物語があった
朝吉は財を尽くして夜逃げをした。
朝吉と喜三郎が工事した登米高等尋常小学校は落成した。
山添喜三郎は建築などの工事に対してとてもきびしかった。
喜三郎は瓦を一枚一枚重さを測り一定以上の量目の瓦は不合格とされたため瓦屋がとても悲しい思いをした。

投稿者 koriyama : 08:53 | コメント (5)

No.603「登米町には、日本建築学会で授賞した、すごい能舞台がある。」

No.603「登米町には、日本建築学会で授賞した、すごい能舞台がある。」
■受賞した森舞台について
宮城県内では唯一、東北地方内で数少ない能舞台の一つである。
平成8年、宮城県登米町に約2億円をかけて作られた。
設計は、隈 研吾(くま けんご)さん。
毎年、6月と9月に公演を行っている。
能の種類は、「薪能」という夕方から舞台の両脇に薪を炊いて行う方法である。
■設計者の隈 研吾さんについて
登米町伝統芸能伝承館の設計者。
1997年度日本建築学会で登米町伝統芸能伝承館で表彰される。
同年、「水/ガラス」という作品によりAIA(アメリカ建築家協会ベネディクタス賞)を受賞。AIA=The American Institute of Architects
今、学生に人気の高い若手建築家である。
■公演の内容、使い方について
公演の内容は、6月に「新緑薪能」、9月にはとよま秋祭りの宵祭りとして「とよま薪能」が上演されている。
座席の料金は場所によるが、2500円前後。
能のほかには、結婚式、落語など多彩に使用されている。
一時間900円で利用することができる。
■森舞台は日本建築学会で賞を受賞した近代的な能舞台であった
表彰された一番の理由は、今の舞台背景にあたる自然を森舞台に上手く利用したことである。
若松、もみじ、桜など、昔からそこにある美しい自然を取り入れ、強調させる造りに、学会は注目したのかもしれない。
長年築き上げてきた登米の伝統は、今や能マニア達の間で全国的に有名なものにまで成長していた。

投稿者 koriyama : 08:52 | コメント (7)

No.601「女性の能面は目ではなく鼻のところに穴があいていた。」

■森舞台の関係者はこう語る
森舞台は宮城県の登米町というところにあります。
もともと女性のお面は目が細くて見えずらかった。
なので安定した能ができるように鼻のところに穴をあけて視界をよくした。
■実際に見てみた・・・
展示室にいってお面を見てみると・・・。
本当に女性の目は、細かった。
そして、ちゃんと鼻のところに穴があいていた。
よく見ると、思ったより穴がちいさかった。
■穴を鼻のところにあけたことのついて
目よりは穴が大きくて目よりはみやすくなったそうだ。
あぶなくないように能ができるようになったので安全に能ができるようになったそうだ。
■女性のお面には安全に能ができるように大切な工夫があった
男性や、鬼のお面には目が大きいため目のところに穴があいている。
穴が大きすぎると能のときに目立つので光が入る程度に小さく穴をあけた。
お面たちは、使いやすいように1つ1つに工夫がされていた。

投稿者 koriyama : 08:02 | コメント (5)