ゆかりの人

岡千仭

 

岡千仭は天保4年(1883),仙台藩士岡蔵治の五男として生まれました。戊辰戦争の時は奥羽列藩同盟に反対して捕らえられましたが,維新後は本校の前身である「麟経堂」を設立して多くの門人を育てながら,仙台藩議事局に勤めました。その後東京府図書館長などを務め数々の業績を残しましたが,大正3年 (1914)東京にて逝去しました。現在,目黒祐天寺に静かに眠っておられます。

志賀潔

 

「偉業!日本の青年医学者 志賀潔 赤痢菌を発見」
明治32年,このニュースは世界各地へ飛び,赤痢におののく全世界の人々に夢と希望を与えました。潔がまだ29歳の時のことでした。

土井晩翠

 

「春高楼の花の宴,めぐる盃かげさして・・・・」「荒城の月」は毎年晩翠の命日10月19日に仙台城(青葉城)に響き渡ります。片平丁小学校では3年に1度,この「晩翠忌」という行事に参加しています。片平丁小学校の校歌の作詞者でもありますが,3人のお子さんを通わせていた幸せな時期の作品といわれています。

魯迅

 

令和元年まで,片平丁小学校前のバス通りを少し行くと,右手に古い二階建ての家がありました。その前には石碑があり。石碑には「魯迅故居」とあり,中国の偉大な革命家,思想家,文学者である魯迅は,若き日を仙台に学び,最初の下宿をこの地に定めた。」と記されています。魯迅ははじめ東京で学び,仙台に来て医学専門学校(現在の東北大学)で学びました。魯迅はこの片平の地で仙台の生活を始めたのです。その後,悩める中国を救うのは医学ではなく文学による精神革命であると決断し,仙台を去ることになったのでした。

一力健治郎

 

一力健治郎は,新しい時代を見抜く力と,物事を最後までやり抜く強い意志を持った人でした。明治元年,仙台藩は戊辰戦争で幕府側につき敗北しました。このため東北は「奥州皆敵」とされ,その後のライフワークを決めていく大きな要因になったといわれています。東北地方を文化の面から発展させようとした健治郎の願いは,新聞業として形を変え今でも生き続けています。

相馬黒光

 

黒光はペンネームで,本名は「良」といいます。仙台藩の評定奉行を務めた星家に生まれ,片平丁小学校に学びました。宮城女学院(現在の宮城学院)に入学しましたが,中退。その後,明治女学院を卒業しました。明治34年,東京本郷にて「中村屋」を開業。後に新宿に移り,次々と新製品を開発して今の中村屋を築きました。この中村屋には美術,文学,演劇などさまざまな分野の文化人が集まり「中村屋サロン」と呼ばれた時代もありました。自らも「黙移」「広瀬川の畔」などで随筆や小説に才を示しました。

野副 鉄男

 

明治15年に本校を卒業しました。東北大学でヒノキチオール合成の研究に取り組み文化勲章を受章しました。東北大学名誉教授などを務め,仙台市の名誉市民としてご活躍なされました。

西澤 潤一

 

半導体の研究の世界的権威の西澤先生は,大正15年仙台市に生まれ,東北大学電気通信研究所長,東北大学総長,岩手県立大学長などを歴任されてきました。本校卒業生のために講演をしてくださったり,同窓会などでもご活躍なされました。