H21.1.7
| 今日は国分尼寺の中にある和賀忠親の墓について紹介します。 |
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![]() (PHOTO 和賀忠親の墓) |
和賀氏は代々岩手県和賀郡の領主でした。 豊臣秀吉が小田原の北条氏政を討伐する際に,父の和賀義忠は家臣等の内部事情により,参陣するのが遅れてしまったのだそうです。そのため,秀吉の怒りを受け,秀吉との戦で戦死し,領地は南部藩の領地となってしまいました。 忠親は16歳で,その後,諸方を巡り,伊達の客分となったそうです。 |
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![]() (PHOTO 和賀忠親の墓) |
「いつかは祖先の地を回復しよう」と 時が来るの待っていた忠親は,秀吉 の死により,人心が動揺したことを好 機と判断しました。そして,旧領地へ もどり,旧臣を集めて,南部藩と戦を 始めました。 伊達政宗は忠親に深く同情してい たので,援軍を送りました。 |
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![]() (PHOTO 忠親墓前の碑) |
やがて関ヶ原の戦も終わり,徳川家が政権を掌握したことで,南部利直はこの事を徳川幕府に訴えました。 伊達家を警戒していた徳川家はこれを口実に,援軍を送った伊達藩の責任を追及し,勢力を削減しようとしたそうです。 忠親は恩義ある伊達家に不利になることを憂慮し,その責任を一身に負い,26歳の若さで自刃しました。その時,家臣の八重樫孫三郎等7人も殉死し,徳川家もそれ以上,伊達家の責任を追及しなくなったそうです。 伊達政宗は忠親の義烈を感じ,その遺骸を国分尼寺に葬り,篤く弔ったそうです。忠親の子の義弘は松山の地に留め,永世客分として扶持したそうです。 |
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