1.地域のようす



(1)学校の位置 北緯38°16′45″ 東経140°54′25″ 標高45m
(2)歴  史
この地は奈良時代に多賀城や陸奥国分寺の瓦を焼いた窯があったところであり、付近は多数窯跡が発掘されている。学校の敷地内には枡江遺跡があり、窯跡4つ、竪穴式住居跡が1つ発見されている。平安時代の歌人、源俊通が「とりつげ、玉田横野の放れ駒、つつじが岡にあせび花さく」と歌った玉田横野の地は、江戸時代初期からこの周辺を指すようになった。(封内風土記)また、芭蕉が奥の細道にこの歌を引用して風景を誉めたたえている。沼あり、森あり、遠くに蔵王、泉ケ岳を見晴らす景観は実に雄大そのものである。  昭和9年風致地区第8号に指定され景観の保全に努められたが、戦争中の乱伐や開墾によって著しく荒廃した。しかし、学校周辺は、規模が縮小されたが保存緑地として自然が保たれている。
(3)地  域  
学区は、学校周辺の緑地を中心として北の安養寺地区、南の丘陵緩斜面の二の森、枡江地区、以前通称小田原田圃といわれた平地の幸町地区の3つに大別される。  安養寺地区は戦後高度成長期に住宅造成されたところで、道路が整備されている。二の森、枡江地区は与兵衛沼を中心に自然が残っており、大部分は住宅地となっている。また、きぼう園、暁星園、小百合園等福祉施設が点在している。幸町地区は戦前の原町工業都市計画によって工業用地として整備されたところで、その跡地は県青年会館、心身障害者福祉センター、市ガス局などの公共施設で占められている。また、公務員関係の宿舎が多い。

 


 

 




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