2004年11月24日

No.135「凹型の校舎は授業の様子を見るためにある。」

■教育資料館で調べてみた
教育資料館は登米町にある、国の重要文化財に指定されている。
明治21年に建てられた木造校舎である。
バルコニーや、六角形を半分に切った形の昇降口や1階と2階までの木がつながっていることなど特徴の多い校舎だった。
■凹型の校舎計画
凹の形の校舎は、旧登米高等尋常小学校を建てる前は、L字型にする計画だったが凹の形に変わった。
理由は凹の形の方が授業の様子や休み時間の様子など見やすいし、L字型も同じだが、直線の方がいろいろの場所に行きやすいから凹の形になった。
■旧登米高等尋常小学校を建てるための予算は・・・
建設費は3500円だった。(当時の値段で3500円。今の値段でいうと、45500000円。)総事業費、5874円。(当時の値段で5874円。今の値段で言うと6607962000円。)資金がほとんどで506日で建てられた。
昔の小学校よりも、旧登米高等尋常小学校はお金がかかった。
だが、1階と2階の木がつながっているのは、お金が足りなかったからだった。
■旧登米高等尋常小学校は凹型をはじめ、様々な工夫がしてある学校だった
1番目をひくのは、白くてギリシャ風のバルコニーだろう。
木の廊下は、(吹き抜け廊下)雨にぬれやすく、しかも腐りやすかったため、亜鉛版をしきつめていた。
バルコニーは1番雨にぬれやすかったため同じく亜鉛版がしきつめられていた。

投稿者 koriyama : 12:08 | コメント (13)

No.130「旧登米高等尋常小学校校舎の柱についているうずまきのようなものは、ふくろうを表している。」

■ふくろうはどこについているのか
旧登米高等尋常小学校の校舎の形はコの字だが、そのバルコニーの見える内側の縦に伸びる太い柱についている。
その太い柱は、1階と2階で1本、つまりつながっている。そのなかでも2階の柱の上のほうに2つ、左右についている。
■ふくろうには何の意味があるのか
当時、ふくろうには2つの意味があった。
1つは、ふくろう=不苦労=苦労をしない、という意味。
もう1つは、厄を寄せつけない、魔除けの意味がある。
■なぜうずまきの形になったのか
うずまきのようなものは、ふくろう自体を表しているのではない。
ふくろうの目を表している。
■ふくろうは学校の守り神だった
ふくろう()

投稿者 koriyama : 12:03 | コメント (11)

No.129「登米高等尋常小学校は廊下で朝会をしていた」

■登米高等尋常小学校に詳しい人はこう語る
登米高等尋常小学校は明治21年10月に建てられた、当時の洋風学校建築を代表する建物である。
廊下は1階2階とも吹き抜けの片廊下式となっている。
■片廊下式の廊下とバルコニーの役割
教室の前面に吹き抜きの廊下を配した質素堅牢な造り。
バルコニ-は、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしている。
■登米高等尋常小学校ではこうして朝会をした
雨が降っている時生徒は廊下に並び校長はバルコニーにそして朝会をした・・・!
■登米高等尋常小学校は廊下で朝会ができるすごい学校だった
登米高等尋常小学校は雨が降っても朝会が出来た。
ちなみに、廊下で朝会の出来る学校は他にまず無いだろう。
それは、校舎がコの字型で、バルコニーがあるから。

投稿者 koriyama : 12:02 | コメント (11)

No.128「尋常小学校は洋風にした方がいいと思った所は洋風にした。」

■建築に詳しい人はこう語る
尋常小学校は外見を洋風にしたため、その頃にとってはめずらしかったため、昭和56年に、重要文化財に指定された。
基本は和風。
■洋風にこだわった訳ではない。
和風より洋風の方がいいと思った所は洋風にした。
■洋風にした所は?
バルコニ-を支えている柱で、どこが洋風かというと、洋風の柱はふつうは丸いがバルコニーの柱は和風で四角い、だがその柱には、みぞが3本彫ってある、みぞが彫ってあるのは洋風。
洋風、和風にこだわったのではなく、洋風と和風を組み合わせてつくった所もあった。
■尋常小学校は本当に洋風建築なのか
尋常小学校は、洋風建築に見えるがそれは、外見だけである。
内部構造は伝統的ながっちりした和風でつくられている。
こういった構造は「擬洋風」という。
尋常小学校は洋風にした方がいいと思った所は洋風にした。
尋常小学校は、洋風は外見でおしゃれ。
内部構造は頑丈じゃないといけないので和風。
尋常小学校は洋風にした方がいいと思った所は洋風にした、すごい学校。

投稿者 koriyama : 12:01 | コメント (8)

No.126「明治時代の登米の就学率は99%であった。」

■尋常小学校は、年々就学率が増えた。
1クラスの人数は30人~40人だった。
大正~昭和初期にかけての日本全国の就学率は50%だった。
大正~昭和初期にかけての尋常小学校の就学率は99%だった。
■授業料は50銭
尋常小学校の1ヶ月の授業料は50銭だった。
5人家族の1ヶ月に食べる米代は約1円ほどだった。
旧登米小学校の明治21年に5874円で建て
られた。今の金額にすると、79498716円になる。
当時の1000円とは、今の13000000円である。
■教室での生活
尋常小学校には、電気がなかった。
窓を大きくして太陽の光で明るくなった教室で学習していた。
真冬には角火鉢をたいて寒さからのがれていた。
子供たちはゆかたを着て生活していた。
教室には、オルガンがあった。
■明治の教育
戦時下には子供が減少したり、教科書のページや科目が減ったりした。
■その後日本では義務教育がはじまった。
明治の登米は就学率が99%を超えた、教育に熱心なとても豊かな町であった。

投稿者 koriyama : 11:58 | コメント (11)

No.124「旧登米尋常の凹の字型は学校らしさをだすためだった。」


■旧登米尋常小学校の特徴(現在は教育資料館になっている)
昇降口は、六角形半(三角形を三つにしたもの)になっている。
凹の字型の校舎。
上から下まで一本の柱でできていた。
■凹の字型の前の設計
建築者山添喜三郎はL字型にする予定だった。
でも山添喜三郎結局は凹の字型のした。
凹の字型の小学校には先生にも生徒にも凹の字型のほうが良い面が多いから建築者たちはそう決めた。
それは学校という建物の実用性を考えられてる。
■凹の字型のとりえ
凹の字型なので生徒がどこにいるかがすぐ分かる。
凹の字型なので直線が多くなるのでトイレに行きやすくなっている。
L字型より凹の字型のほうが学校らしさがよくでるから。
■旧登米尋常小学校の凹の字型は学校らしさをだすためだった
凹の字型は設計者や教師やいろいろな人が生徒のために考えた優しさであった。
そして教師には監視手助けする考えである、優しいだけでなく、生徒へのきびしさもかたちにでているものである。

投稿者 koriyama : 11:56 | コメント (12)

No.120「木の廊下と亜鉛版のバルコニーがある小学校がある」

■登米町の教育資料館を詳しく調べてみた
旧尋常小学校は登米で一番古い小学校である。
現代は教育資料館として使われている。
その校舎の中でシンボル的な役割を果たしている二階のバルコニー
バルコニーは亜鉛版がしきつめられている。
■木の廊下詳しく調べてみた
廊下は吹き抜け廊下なっている。
その吹き抜け廊下は、雨にぬれやすくとても腐りやすく亜鉛版をしきつめることにより腐食をふせいだ。
廊下は、亜鉛版により腐食を守った。
■バルコニーに亜鉛版
バルコニーは一番雨のあたるところにある。
亜鉛版は腐食をおさえる力がある。
バルコニーは一番雨にあたりやすい所にあり腐食がおこりやすく亜鉛版によって腐食をふせいだ。
バルコニーは亜鉛版によって腐食から守った。
■旧尋常小学校は木の廊下と亜鉛版がしきつめてあるすごい小学校である
旧尋常小学校は木の廊下全面に亜鉛版をしきつめ、少しでも腐らないようにした。
昔の小学校は頭の知恵をうまくつかい、バルコニーを腐食から守ったすごい小学校なのだ。

投稿者 koriyama : 11:50 | コメント (15)

No.117「明治に建てられた小学校は地震に強い」

■地震との勝負
前から数々の地震と戦い勝っていた・・・。
しかし、ダメージも受けていた。
昭和53年宮城沖地震が起きたしかし負けなかった。
数々の地震に宮城沖地震が起き、小学校はかなり弱っていた。
■保存修理事業の始まり
かなりダメージを受けていた小学校を保存工事することになった。
1つ1つのパーツは高かった。
総工費はなんと2億3962万円という聞いただけではピンとこない額だった。
これほど山添氏や登米の人は小学校を大切に思っている。
昭和62年10月から保存修理工事をはじめた。
■教育資料館はとても高価
教育資料館(旧登米高等尋常小学校)は洋風建築の技術を収得した山添氏が建てた。
屋根、バルコニー、玄関、などのパーツ1つ1つにこだわりとてもすばらしい建物になった。
明治21(1888)年に2年の歳月をかけて完成した。
昭和56年に国の重要文化財に指定された。
■地震に強い「教育資料館」誕生!!
昭和62年10月からの保存修理工事が終った。
平成元年「教育資料館」が誕生しました。
大正時代の授業を体験できたり、明治時代からの教科書を見学できる建物として一般公開されている。
教育資料館を保存修理工事することで、もともと地震に強かった教育資料館をさらに地震から強くし、どんな地震からも負けない資料館になった!!!

投稿者 koriyama : 11:47 | コメント (13)

No.116「教育資料館には特徴的なものが多い

■現教育資料館になるまで
旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)は山添喜三郎氏により建てられたもので、明治の洋風学校を代表する建築物として昭和56年に重要文化財にも指定されて昭和54年役割を終えた後も教育資料館となって活躍し続けていた。
■建築費用の使われ方
教育資料館のシンボルはコの字型の校舎の中心にある洋風のバルコニーでいろいろな特徴のある教育資料館のなかでも、いちばんめだっていた。
■教育資料館の特徴の数々
アイオニックオーダーを簡略化した
柱頭で飾ったり、六角形がたにしている、他にもいろいろ特徴があるので重要文化財になるのも納得だった。
■教育資料館はすごい建築物だった。
教育資料館は、洋風のバルコニーやアイオニックーオダーなどを取り入れたりや校舎の形をコの字型にしたりといろいろな工夫が施されていた。
1888年に2年の歳月をかけ落成その後昭和56年に重要文化財に指定された。昭和62年に保存修理を行い平成元年に教育資料館となりました。

投稿者 koriyama : 11:46 | コメント (10)

No.115「旧登米高等尋常小学校の窓ガラスは、電気の代わりだった。」

■教育について詳しい方に聞いてみた
当時(明治中期)は、今のように電気がなかった。そのため、窓を大きくしてガラスを代わりに使った。
ガラスは電気の代わりになり、教室は明るくなった。
ガラスは少しゆがんでおり、光が直進しすぎてまぶしくならないように工夫されていた。
■当時の建設費について
旧登米高等尋常小学校の総事業費は、5’874円で現在のおよそ7‘9,498’716円にあたる。ちなみに当時の1000円は、現在のおよそ1’300万円にあたる。
旧登米高等尋常小学校の総事業費は、一般の小学校の10倍もの金額がかかった。ちなみに一般の小学校の総事業費は、7672200円。
■なぜ10倍もの金額がかかったのか
それは、建築家〝山添喜三郎〟がどの建築材も自分のこだわったものしか使わなかったため。
山添喜三郎とは、1843年新潟県生まれの優れた洋風建築家。
山添喜三郎は仕事には極めて忠実で、その結果、工事に対してはずいぶんと厳しかったようで今でも数々のエピソードが語り伝えられている。
建築材料である木材は検査が厳重でハネ材が多く出され、そのため木材供給業者は家産をかたむけた。
工事の厳しさから山添に恨みを抱く者がおり、検査のため屋根に上ったところ、梯子をはずされて昼食になっても夕方になっても下に降りられなくされたこともあった。
■旧登米高等尋常小学校の窓ガラスは電気の代わりをし、教室を明るくした
人に恨まれながらも良い授業環境をつくり、〝子供たちが豊かに育つように〟とこんなにもお金をかけて登米尋常小学校を建てた、山添喜三郎。
今も昔も大人が子供に、〝豊かに育ってほしい〟〝誠実な人になってほしい〟という思いはいつになっても変わらなかった。

投稿者 koriyama : 11:46 | コメント (5)

No.114「旧登米高等尋常小学校の一ヶ月の授業料は50銭だった」

■当時の50銭の価値は
校舎の建設費は3500円。
当時の5人家族の一ヶ月の米代は1円。
当時の1000円は現在の13000000円。
一ヶ月50銭の出費は、決して楽ではなかった。
■旧登米高等尋常小学校の教育
当時は小学校は義務教育ではなかった。
当時は給食はまだなかった。
読書、算術、作文、習字などを勉強していた。
■旧登米高等尋常小学校の建設と発展
明治21年(1888年)、山添喜三郎によって建設された。
木造2階建ての和洋建築で、国指定重要文化財である。
当時は就学率はとても高く、小学校が義務教育ではなかった明治9年には生徒数は477人を数え、県内最大であった。
資金はほとんど生糸業、運送業、醸造業、商業、実業家などの寄付によるものだった。
■旧登米高等尋常小学校の教育は、登米の町と家庭で支えられていた
旧登米高等尋常小学校は、登米の豊かな経済を背景に生まれた。
明治20年は町の予算の48%を教育にかけた。
親が子供を思う気持ちは、今も昔も変わっていなかった。

投稿者 koriyama : 11:45 | コメント (12)

No.112「教育資料館の柱は、上から下まで1本だった。」

■実際に見てみた
教育資料館は旧登米尋常小学校である。
教育資料館の柱は、1階・2階の床を突き通して、どこも1本でつながっていた。
■教育資料館は建築以来壊れていない
明治21年10月に登米尋常小学校として建築された以来、大きな災害にも全く壊れていない。
平成元年に保存修復作業を行ったが、大きく壊れた部分はない。
■登米尋常小学校の建築方法は頑丈だった
建築以来壊れなかったのは、粘土・砂・砂利・石灰などを混ぜ合わせたものをつき固め、それに土台をのせるという極めて頑丈な造りだったから。
登米尋常小学校を建設した山添喜三郎は、使う瓦の一定の量目以上のものは全部捨てた。
建築材料の木材も、検査が厳重で捨てる木材が多かった。
■教育資料館の柱は、土台造りに手間をかけて災害から守っていた
総工費2億3962万円もかけて造った350坪もある教育資料館は、いろいろな工夫といろいろな人の汗と涙、お金によって現存している。
教育資料館は、土台を堅固なものとし柱を上から下まで1本にすることによって、災害から守ることができるのである。

投稿者 koriyama : 11:42 | コメント (12)

No.109「旧高等尋常小学校は一種類の木で造られている。」

■通常より多い、予算と日数
宮城県登米町に旧登米尋常高等小学校の校舎が保存されている。
旧高等尋常小学校は建設費が当時の小学校より、10倍ほどお金がかかった。
506日間(2年半)かけてつくりあげた。
■建築にこだわった結果
柱などの建築にこだわりお金がかかり、木材などにお金がかけられなかった。そのため、廊下の木は一種類の木でつくられている。
それでも建築費、3500円。総事業費、5874円。
今の金額にすると、建築費4550万、総事業費66億7百96万2000万であった。
■木材にお金がかけられない
本当は、数種類の木をつかったほうが丈夫にできるが旧高等尋常小学校はそれができなかった。
旧高等尋常小学校は、廊下に180本の松の木をつかった。
■旧登米尋常高等小学校は、宮城県の、大地震に何度も耐えた
それは、建築技術や1本の柱にしたこだわりがあるからだ。
山添は材料にこだわれなかった分、建築方法にこだわり、耐久性を高めた。
デザイン、耐久性にすぐれたすばらしい、すごい建物である。

投稿者 koriyama : 11:41 | コメント (12)

No.107「明治時代に作られた登米町」

■登米高等小学校の1クラスの人数と何クラスあるか
1クラスの人数は現在と同じ34人~36人となっていた。
何クラスあるかは、現在と同じ4組となっている。
旧登米高等小学校の窓は正方形になっている。
家から小学校までの通い道は、船で通っていた。
■明治時代の教科書について調べた事
明治時代の教科書は縦と横しかなかったのである。
明治時代の音楽の教科書は音符は現在と同じく書いてあっても、歌詞は現在と同じではなく歌詞が書いてあった。
現在の教育資料館で、展示されていたのは、理科と、国語と、算数と、音楽だけの四点セット、だけが、展示されていた。
学年ごとに教科書の本数は、全然違う。一年生は二冊で二年生は、三冊で、三年生は、四冊、四年生は、五冊で五年生も五冊で六年生は、六冊である。
■旧登米高等尋常小学校は主に何を使っているのか
旧登米高等尋常小学校は、何を主に使って、いるのかというと窓のさくは、木で一枚の窓をかこっている。廊下は、丈夫な木で作られている。ドアも木製で出来ている。
チャイムは、昔からあった、鐘で鳴らしている。その鐘は学校中に広がり、鐘の音がよく聞こえるという良い感想を、言ってくれることがうれしかったということが聞かれた。
■明治時代に作られた登米の今
今は登米町に、いろいろな資料館

投稿者 koriyama : 11:39 | コメント (6)

No.106「明治時代の登米は、教育に熱心な町だった。」

■明治時代の登米町は教育に、多くの支援をしていた
明治時代の登米町は、町の予算の48%を、教育にかけていた年があった。
当時、登米町は北上川を通して物流の拠点だったので、流行の先端にあった。
流行の先端だったことが良く分かるのが、当時の小学校(今の教育資料館)である。
■教育の拠点だった小学校のつくりも、工夫されていた
この小学校は、山添喜三郎という人によってつくられた。バルコニーや吹き抜けの廊下など、洋風的なものを取り入れつつ、屋根を瓦葺き造りにしたり、畳の部屋があるなど和風も取り入れてつくられていた。
そんな小学校の建設には、約8000万のお金がかかった。
■裕福な家庭が多かった
小学校の1ヶ月あたりの授業料は、50銭
当時、1円で家族5人分の1か月分のお米が買える時代だった。
そんな時代だったのに、就学率が99%の時もあった。
それは、経済的に裕福な家庭が多かったからなのだ。
■経済的に裕福な家庭が多かった登米町は、教育にも熱心だった
教育の拠点だった小学校は、昭和56年に重要文化財と指定された。
ここまで来るまでには、明治時代の登米町が教育に支援をしたり、小学校の建設を工夫したりと、長い道のりがあったのだ。
明治時代の登米町は教育に熱心な町だった。

投稿者 koriyama : 11:38 | コメント (8)

No.105「凹の形にしたのは学校の、各教室(授業)が良く見えるようにするためだった。」

■登米高等尋常小学校について「教育資料館」に行って調べてみた
明治21年10月に立てられた当時の洋風学校建築を代表する建物だった。
純木造の2回建で正面に向かってコの字型に作られている。
両端には六角形を半分に切った形の昇降口(六方と呼ぶ。)があり、廊下は1回2回とも吹き抜け片廊下式となっている。
特徴的なのが2回バルコニーで、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしていた。
■当時の学校について
今の宮城県の全域は、学制公布の当時は宮城県(仙台県)と水沢県とに分かれていた。それが明治9年8月に至り、宮城県と、磐井件(水沢県)とが合併して、今の八市六郡からなる地域となった。
合併前の宮城県は、6年太政管布告(明治5年7月第214号)ならびに文部省が公布した学制(同年同月第13号)にもとずいて、全管区を三中学区二百三十小学区に分ち、毎小学区に一小学校を設けることとなり、公立小学校を二百二十六項設置した。
■学制実施の大要
前述『被仰出書』の、趣旨によって公布され学制は、総ての学校に関する規則を含み頗る堂々たる者ではあったが、一面中央集権的なものであった。
即全国の学事を、文部省で統一、国内を八大学区(六年四月も七大学区に改めた)に分ち、海区に一大学区を三十二中学校に分ち、海区に一中学校を設け、一中学区を二百十小学区に細分し。海区に一小学校を建てることにした。
■旧登米高等尋常小学校の今
旧登米高等尋常小学校は今は、旧校となり、登米小学校教育記念館として使われている。
そして今も変わらず特徴的な、凹の形の校舎は今も変わらずそのままの形で残されています。

投稿者 koriyama : 11:33 | コメント (19)

No.104「教育資料館のバルコニーの天井は格天井。」

■教育資料館は、旧登米高等尋常小学校
教育資料館は明治21(1888)年10月に建てられた、洋風建築を代表する建築。
昔ながらの洋風の雰囲気を漂わせる様式は、明治中期の地方文化の結晶として、価値ある貴重な建造物である。
■実際に見て、調べてみた
四隅の柱に、柱身に縦方向に刻まれた溝を施し、柱の上端には、ギリシャ風に見事な渦まき模様の柱頭飾りである。
風雪による腐食を防ぐために全面に亜鉛板。
■明治中期の地方文化の結晶
学校建築の流れや動向を知る上で、手がかりとなる貴重な遺構。
県技術が地方の建物を設計監督したこと、明治中期の地方文化の水準を示す貴重なものである。
■教育資料館はバルコニーのある貴重な建造物だった
二階バルコニーは、校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしている。
その三角部分は、しっくり仕上げとし、中央に朱色の紋章が配してある。
この紋章は、旭日を型どったもので、「朝暘の紋章」と言われている。

投稿者 koriyama : 11:33 | コメント (15)

No.103「旧登米高等尋常小学校は、コの字型設計の前にL字型が設計されていた。」

■L字型からコの字型にした理由
旧登米高等尋常小学校は教育資料館である。
コの字型にしたのは校舎全体を伺い知るために造られ、その後はトイレや授業の始めと終わりを知らせる鐘にも近いからコの字型にした。
初めの校舎を、L字型にしたのは建築者のデザインであり、こだわりでもある。
■教育資料館の中心にあるもの
教育資料館の中心にはバルコニーがあり学校全体のシンボルとなっており、洋風建築もデザインの一部に入っている。
この時代は洋風建築が盛んに造られるようになり、教育資料館も洋風建築のその一つである。
■教育資料館を建築した山添喜三郎氏
教育資料館を建築した山添喜三郎氏は当時の洋風建築の才能をふんだんに発揮し、すばらしい実績を残している。
山添喜三郎氏は明治6年に日本人初のウィ-ン万国博覧会に参加している。
■L字型からコの字型にしたのは山添氏
山添喜三郎氏がなぜ教育資料館を造ることになったかと言うと、山添は宮城県でも有名な洋風建築者であったから。
山添喜三郎氏は登米警察署も手がけている。
さらに、建物の造りが似ていて中心にバルコニーがある。
教育資料館は国指定重要文化財として現在も残っており、当時の様子を模型などで忠実に表現されていて、いまも多くの人々に伝えられている。
L字型から、コの字型設計にした山添喜三郎氏は、洋風建築を多く取り入れ教育資料館を造り、歴史に名を轟かせた。

投稿者 koriyama : 11:32 | コメント (11)

No.101「校舎にバルコニーのある小学校があった。」

■教育資料館について資料で調べてみた
教育資料館は明治21年10月に建てられた、洋風建築を代表する建物。
昔ながらの洋風の雰囲気を漂わせる様式は、明治中期の地方文化の結晶として価値ある貴重な建造物と言える。
■洋風建築を実際に見てみた
バルコニーの天井は格天井になっている。
教育資料館のガラス戸も洋風。
教育資料館の窓も洋風。
和風建築を実際に見てみた
■バルコニーの屋根は切妻造りの和風。
バルコニーにある、ギリシャ風の見事な渦巻き模様の柱飾りは、洋風に見えて実は和風。
すべての柱が通し柱も和風。
■旧登米高等尋常小学校の校舎とバルコニーは洋風と和風造りだった
和風を基本に洋風を取り入れたり、洋風を基本に和風を取り入れたりと、洋風のいい所と、和風のいい所を取り入れ、うまく調和して和洋折衷の造りになった。
教育資料館は、何かをすっかりそのまま真似たのではなく、洋風と和風を自分で作りあげた、努力のたまものである。

投稿者 koriyama : 11:25 | コメント (9)