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2004年11月22日

No.610「明治30年に登米の尋常小学校は生徒が2000人いた。

■昔の学校について調べた。
机は全部木でできていた。
校長室のおいてある物は洋風の造りだった。
机を深く打ち込み、ねんど、砂、じゃり、石灰を混ぜ合わせていた。
このために地震や、洪水に耐えた。
■昔の学校の生徒数
昔は、1200人ぐらいの数だった。しかし、明治30年には、2000人を超えた。東京で
戦争があったために東京の生徒たちが宮城の学校に来た。そのために登米町の学校に来た。登米は経済的にも裕福だったので学校に通わす事ができたために、生徒数が増えていった。
■学制実施の大要
全国で中学校が二百五十六、小学校が五万三千七百六十の学校を設けるとした。
当時の教育制度はフランスの制度を参考にてできた。
最も力をいれたのは小学校であった。小学は満六才から、入学させた。
■疎開した児童たちは
家族とは離れたが、空襲などの心配もなく良い生活だった。
東京にいたときは、配給される芋や、かぼちゃなどの物しか食べていなかったために、
小学校の給食のあまりのおいしさに涙を流しながら食べる生徒も少なくなかった。東京からは、800人が疎開してきたために、2000人になった。

投稿者 koriyama : 2004年11月22日 08:59

コメント

あんなにせまい留置所にたくさんの人が入ってたなんてびっくりしました。

投稿者 310 : 2004年11月22日 10:17

あんなにせまい留置所にたくさんの人が入ってたなんてびっくりしました。

投稿者 310 : 2004年11月22日 10:17

こんなに多い2000人もの生徒を先生はどうやって授業をやっていたのかも知りたかったです。

投稿者 231 : 2004年11月24日 09:26

結構良くまとめてありましたけど、もう少しあると言いかと思います。

投稿者 612 : 2004年11月24日 10:11

尋常小学校に生徒が2000人もいたなんてすごいですね。

投稿者 622 : 2004年11月24日 10:15

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