年号 時代 岩切やその周辺であった出来事
1603年 江戸時代 伊達政宗の時代
 鎌倉時代の『源頼朝』の東北征伐の際,『伊達朝宗』はかなりの手柄をたて,伊達郡(福島県)の領主となり,勢力を伸ばしていきます。その後晴宗の時,米沢へ移り,17世『伊達政宗』の代に岩出山に来て,1601年(慶長6年)仙台城に入り,伊達62万石として,350年続きます。
兵藤大隅信俊は今市を作り上げたスゴイ人
 さて,5代目兵藤大隅信俊(24)は,岩切にとって重要な人物の一人です。彼は新しい町今市(25)を作った人です。兵藤の先祖は留守の家臣でしたが,留守が岩手県水沢に移っても伊達政宗の時代になっても,代々岩下(26)に住んでいました。しかし,兵藤大隅信俊だけは,現在の今市に移り住み,新道を作り始めます。そして野原を新田にし,町を宿屋にし,それを伊達政宗に差し上げたいことを伝えますと,政宗は大変感心し,新町取立ての免許(今でいう,店を開くことのできる免許)10種類が,お墨付きでくだされました。ただ,1ヶ月のうち6日間だけの商いだったようです。これを六斎市といいます。
 1625年(寛永2年)兵藤大隅信俊は,102人の足軽組頭となり,地区の警察役検断を兼ねていました。(足軽=足軽く疾走する者の意味。常は雑役,戦陣は徒歩で戦う兵のこと。)1623年(元和9年)岩切新町は新しい市場の町“今市”になりました。そして耕田寺(27)は,名前からも分かるように,先祖が新田開発した足軽の人達の一家の葬式,供養等を営む寺(菩提寺といいます。)としました。
鎌田九郎は太っ腹!? 
 もう一人,重要な人物がいました。支配人頭,鎌田九郎です。彼の尽力で百文ずつ多く,褒美がもらえるようになったことから,彼の領域を百文囲(28)と言うようになりました。また,彼の遺言今市が見渡せる所に葬って欲しいということで,東光寺山門,右手の坂の途中ちょうど幼稚園のワキ裏の眺めの良い所に墓(29)を作りました。大正時代までの彼の命日には,彼を偲んで,墓参りしたグループがありました。これを鎌田講といいました。
一度は食べてみたいてんのこにぎり
 このあたりは,塩釜に通ずる街道,石巻に通ずる街道の途中にあり,茶店や宿でにぎわいました。案内は湯豆腐(30)(豆腐というよりは,松葉の形をしたうどんのような物),比丘尼坂の甘酒(31),燕沢のはねこうさぎの民芸品(32),岩切今市の今市おこし(33),岩切台ヶ原は,てんのこにぎり(34)があったようです。幻の産物です。
季節限定,臨時の消防署が特設!!
 地震,雷,火事,親父と言われるように,火事はとても恐がられていました。町火消しは,常時,火見櫓で見張りし,発見した時,警鐘を打ち鳴らし,消火活動をしていました。今市足軽でも,冬から春先にかけて,早駆という特設火消し組みが作られました。
1868年 明治時代 ピカピカの大日如来像!百聞は一見にしかず
 山崎追分の馬頭観音(35)耕田寺にある板碑(36)東福寺という名前があります。近所に住む人達の話から,追分北側方面に江戸時代,小規模ながら立派なお寺があったことが分りました。しかし明治初年の廃仏令で無くなってしまいます。その際,病気治療に霊験があるといわれた大日如来像(37)だけは,信者の千代田家に継承されました。
2つに分れた線路,原因は山!
 1868年(明治2年)仙台藩が仙台県になりました。(廃藩置県といいます。)岩切も,仙台県宮城郡第2大区小10区になり,7年後には,区務所が置かれました。
 1872年(明治6年)には,5等郵便局が開設,1886年(明治20年)岩切駅が開設されました。今の高架線(トンネル)辺りです。翌年,現在の場所に移転しました。本来,東北本線は,利府,品井沼,として続いていました。しかし,あまりにも急勾配なため,海側にもう1つ線を設けました。昭和25年,利府の先は,廃線されました。(38)
岩切駅に正岡子規立ち寄る!
 明治26年6月正岡子規が,奥の細道を訪ねた時『はて知らず記』の一節に,岩切駅で詠んだ句があります。
  蓮の花 さくやさびしき 停車場
 「停車場がありながら,さびしい所,しかし蓮の花が咲いていて,疲れを癒してくれた。」というような意味です。
1912年 大正時代 〜第一次世界大戦〜
1926年 昭和時代  昭和6年7月の満州事変,昭和12年の日華事変,昭和16年の太平洋戦で,岩切駅でも,兵士を見送る声が響きました。昭和20年7月10日は,仙台空襲があった日です。夜にもかかわらず,その燃える火で,字が読める程だったという事でした。
小学校のお引越し
 東光寺(寺子屋)⇒八坂神社の南あたり⇒学校入り口バス停の西側付近(現在も空き地になっている。)⇒現在の下区。移転したこの頃,小鶴小学校という白い壁で,2階建てのモダンな建物が老朽化したため,その方面の子供達も,岩切小学校に通ってきました。また,学校入り口バス停付近の小学校跡を岩切村役場(看板は八坂神社社務所のガラスケースの中にあります。)として使ってました。
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