9月3日(土)に開催しました文化発表会で、本校の3年の三浦さんが、自らの体験をもとに発表しました。
 多くの方々に感動を与えました。

    「私の復興計画」
               八軒中3年 三浦さん

私の両親の故郷は南三陸で,祖父母は四人とも南三陸に住んでおり,南三陸は,私にとっても故郷と言えるところです。大地震による大津波が南三陸を襲ったあの日,私は学校で翌日に行われる卒業式の準備をしていました。校庭に全校生徒が避難し、強い余震におびえながら様子を見ている頃に,沿岸部は次々に大津波にのみ込まれていたのです。

 帰宅して祖父母に電話をかけてもつながりません。ラジオを聞いても混乱していて南三陸の情報が得られず祖父母のことが心配で心配で、仕方がありませんでした。深夜一時ころ,携帯電話のテレビを見ていた母が,「志津川が出ている」と叫び,家族で小さな画面に集中しました。たった五分程度映し出された南三陸の姿に,言葉は出ず,この画面に映っていることが事実なのかと信じられず呆然と見つめることしかできませんでした。祖父母の家の近くの病院とお店の看板だけが見え,どのくらいの波が来たか思い知らされました。祖父母の家は海から歩いて五分の距離で海産物屋を営んでいます。父方の祖父の仕事場は、山の方ですが、祖母は海に近い家にいます。逃げ切れたのかすごく心配で、どうすればいいのか自分の無力に苦しくなりました。数日後、母方の祖父母の無事が確認できましたが、その一方父方の安否はわかりません。私は毎晩寝るときに、祖母が波にのまれる姿が何度も何度も浮かんで涙が止まりません。心配で心配で、やりきれない思いでいっぱいでした。父も次第に「もう無理かもしれないし」とつぶやくようになり、それでも一度も涙を見せず、ほんの少しでも希望はあると自分に言い聞かせていることがわかりました。「どうか生きてて」毎日毎日、祖父母が生きていることを祈りました。数日後、やっと祖父から、祖母と一緒にベイサイドアリーナに避難しているという電話がありました。どっと、何かから解放されて暖かいものに包まれたような気持ちになりました。電話で祖母の声を聞いたときは涙が後から後からこぼれてきて言葉になりませんでした。実際に声を聞き本当に祖母が生きているんだと実感しました。祖母は、「今まで涙でなかったのに、英里奈に泣かされたな」といつもと変わらない声で言ってくれました。

 被災地の現状は、本当に言葉になりません。祖父母の家を見に行くと玄関と家の土台だけが残っていて、いつもは大きく感じていた家が、ガランと巨大な空間の中に飲み込まれ、小さな跡地のようになっていました。それでも、命があっただけで本当によかったと思っています。安心して暮らせる自分の家も、大切なものもたくさん失って厳しい生活になりますが、ただ生かされているだけで十分です。

 「どうか生きてて」と私と同じように願いながら、家族を失い、はかり知れない悲しみに中にある人々がたくさんいます。特に、同年代やもっと小さい子供たちのことを思うとたまりません。私はどうしたらいいのか考えながら過ごしていました。

 五月、修学旅行にいくことをためらう私に祖母が「いいから楽しんでおいで。英里奈たちが元気にやってんのが一番なんだからといって餞別をくれました。そして、仙台にくることを勧めても「ここでやっていくよ」と志津川を離れません。生かされている私は私にできることを一生懸命やるしかないのだと考えるようになりました。私の復興計画は小さな一歩を積み重ね続けていくものです。今、計画の第一歩として、祖父母を笑顔にするために、自分の役目をしっかり果たす努力を開始しました。長く険しい道ですが・・・